ペダル・スティール・ギター
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Modern pedal steel guitar with two necks

ペダル・スティール・ギター(ペダル・スチール・ギターとも)はスティール・ギターのコンソール・タイプのものにいくつかの弦の音程を変化させるためのペダルとニー・レバーが備えられ、従前のスティール・ギターの構成に比べて多様で複雑な音楽演奏を可能にしている。他のスティール・ギターと同様に、この楽器も制限のないグリッサンドと深いビブラートをかけて演奏することができ、これは人の声と共通する特性である。ペダル・スティール・ギターは一般にはカントリー・ミュージックと関連付けられている。

1950年代にスティール・ギターにペダルおよびニー・レバーが追加され、演奏者がバーを動かさずに長音階を弾いたり、コードを弾きながらペダルを踏むことによって現在のハーモニーからスラーないしベンドアップで不協和音を生み出すことができるようになった。後者の特徴はペダル・スティール・ギター以外の従来のギターでは実現が困難だったカントリー・アンド・ウェスタンで人気のある独特の音色を作り出している。

19世紀のハワイで初めて使われるようになって以来、スティール・ギターの音色はアメリカ合衆国では20世紀の前半にはポピュラーなものとなっており、「ハワイアン・スタイル」としても知られる、ギターを水平にして演奏するための、特別に設計された楽器の一族を生み出した。この年代記の最初の楽器はラップ・スティールとも呼ばれるハワイアン・ギターで、次は、ナショナル社ドブロ社 が最初に作った、より大きな音を出すためにリゾネーターを付けたラップ・スティールだった。エレクトリック・ギターのピックアップは1934年に発明され、スティールギターが他の楽器と同様に聞こえるようになった。その後、電子的な増幅によりエレクトリック化されたラップ・スティール、コンソール・スティール、そしてペダル・スティール・ギターが開発された。

ペダル・スティールを演奏するには、両手、両足、両膝(膝はそれぞれの膝の内側と外側にあるレバーを操作する)の協調性を同時に必要とするという異常な身体的要求があり、このような要求をする楽器はこのほかには北アメリカのリード・オルガンだけである。この楽器を開発した先駆者には、バディ・エモンズ(英語版)、バド・アイザックス、ゼイン・ベック、ポール・ビグスビー(英語版)などがいる。アメリカのカントリーミュージックのほか、セイクリッド・スティール(英語版)と呼ばれるアメリカ東部や南部の宗教音楽、ジャズ、さらにはナイジェリア音楽の一種であるジュジュ(英語版)などでも使用されている。
初期の歴史と進化スティール・ギターの詳しい歴史については「スティール・ギター」を参照

19世紀後半、ヨーロッパの船乗りやメキシコの”バケロ”(vaquero:牧童、カウボーイ)によってスペイン型のギターがハワイ諸島に持ち込まれたが[1][2]、ハワイの人々は導入時に使用されていた標準的なギター・チューニングを採用しなかった[3]。むしろ、6本の弦をすべて弾いたときにメジャーコードが鳴るようにチューニングし直し、これが現在「オープンチューニング」と呼ばれている[4]。このチューニングを「スラックキー」と呼ぶのは、いくつかの弦を緩めている[5]からである[1]。コードを変えるためには、通常スティールパイプや金属片などの滑らかな物体を使用し、それを弦の上にスライドさせて4度または5度の位置に移動させ、簡単に3コードの曲を演奏していた[注釈 1]。ギターを体に当てながら弦にスティールバーを当てるのは物理的に難しく、ハワイの人々は膝の上にギターを敷いて座りながら弾くようになった。このような演奏スタイルがハワイ中に広まり、国際的にも広まっていった[1]
電子的な増幅

ハワイのラップ・スティール・ギターは他の楽器と張り合えるほどの音量ではなかったため、多くの発明家がこの問題を解決しようとした。

1920年代のロサンゼルスで、スティール・ギター奏者のジョージ・ビーチャムは、スティール・ギターにメガホンのようなホーンを付けて音量を大きくする発明品を目にした[7]。ビーチャムはこれに興味を持ち、詳しいことを教えてもらうために自宅近くの店を訪ねた。その店は、ジョン・ドピエラ(英語版)というバイオリンの修理屋が経営していた。ドピエラと兄弟のルディはビーチャムに対してギターに取り付けられた大きなビクトローラ蓄音機の拡声ホーンのように見えるプロトタイプを示したが、これは受け入れられなかった[7]。彼らの次の試みである、ギターのブリッジの下で付けられた大きい金属の拡声器に類似した円錐形のリゾネーターはなにがしかの成功を収めた[8]。この成功に元気づけられ、ビーチャムはドピエラ兄弟の発明を実現するための新会社を兄弟とともに立ち上げた。新しいリゾネーターの発明は、ロサンゼルスの豪華なパーティで宣伝され、有名なハワイアン・スティール・ギター演奏家のソル・ホオピイが実演を行った。その夜、投資家は12,000ドルの小切手を書いて託した[7]

新しいリゾネーターを使用した金属ボディのギターを製造するための工場が建設された。金銭問題と意見の相違が続き、ドピエラ兄弟は会社をめぐってビーチャムとの法的な戦いに勝利し、その後、DOpyeraとBROthersの頭文字をとったDobroを社名とした「ドブロ製作所」を設立するために独立した。ビーチャムには仕事がなかった。彼は何年も前から「エレクトリック・ギター」について考えており、さらにドピエラ兄弟との論争の少なくとも一部は、彼がエレキ化のアイデアに時間をかけすぎたことと、レゾネーター・ギターの改良に十分な時間をかけていなかったことが原因だった[7]。ビーチャムは電子工学のコースに入学し、彼の最初の目的達成のために、2x4材の切れ端で単弦のギターを作り、円筒型蓄音機のピックアップを用いて実験したが、うまくはいかなかった。ビーチャムは最終的に、ブレスレットのようにギターの弦を囲む2つの馬蹄形の磁石と、磁場を集中させるためにワイヤーで巻かれた6本の小さな金属棒(各ギター弦の下に1本ずつ)を使用するというアイデアを思いついた[9]

アンプとスピーカーに接続すると動作した[7]。ビーチャムは熟練した職人の助けを借りて、自分の装置に接続するためのギターのネックとボディを製作した。最終的に完成したものはフライパンに似ていると考え、この楽器の愛称となった。1934年6月2日に特許を申請し、1937年8月10日に特許を取得した[9]。ビーチャムは身近に居たエンジニア、アドルフ・リッケンバッカーに製品の製造を依頼し、一緒にロー・パット・イン社(electRO-PATnted-INstruments)を設立したが、すぐにエレクトロストリングと社名変更した[7]。”Beauchamp”(ビーチャム)よりもRickenbacker(リッケンバッカー)の方が発音しやすいと考えたことと、アドルフの従兄弟のエディ・リッケンバッカーが第一次世界大戦のエースパイロットだったことからブランド名としてはリッケンバッカーが使われることになった[7]

1931年当時、世界恐慌が最悪の状況にあり、ギターの販売が芳しくなかったことに加え、特許庁が電気楽器の発明分類を楽器にするのか電気機器にするのかを明確にしていなかったために特許の登録が遅れた[7]。競合他社はエレクトロストリング社の特許を侵害していたが、同社には侵害訴訟を行う資金がなかった。競合他社が発明を急速に改良して陳腐化させたため、最終的にビーチャムは経済的利益を奪われることになった[9]。エレクトロストリング社の最も成功した製品は、ハワイアン・ギター(ラップ・スティール)のA22”フライング・パン”であり、これはあらゆる種類の最初の電化楽器であり[1]、伝統的なスペイン型のギターよりも小さい金属製のボディで作られており、ミュージシャンの膝の上に横たえて演奏される楽器だった。

さらに2つのブレイクスルーが生まれ、そのうちの1つはギター・アンプであり、この発明を使用するためには購入する必要があった[10]。そして2つ目は、当時は認識されていなかったかも知れないが、エレクトリック・ギターがもはや伝統的なギターの形をしている必要がないということであった[11]
ラップ・スティールリッケンバッカー・ラップ・スティール・ギター、エレクトロB6、ビーチャム式馬蹄形ピックアップ付き、1930年代後半


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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