ペストの歴史
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ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画 Michel Serre 作

ペストの歴史においては、人類は、過去に少なくとも3度のペストが大流行している。ただし、その発生や収束の時期、流行がどのパンデミックに分類するかについてはまだ議論が存在する[1]

第一のパンデミックは、西暦541-750年、エジプトから地中海沿岸一帯に広がった、いわゆる「ユスティニアヌスのペスト(英語版)」(plague of Justinian)であり、感染はヨーロッパ北西部まで拡大した[2]

第二のパンデミックは、西暦1331年-1855年、おそらくは末の中国からシルクロード経由で中央アジア、地中海、ヨーロッパへと広がった流行で、しばしば「黒死病」と称される[3]

第三のパンデミックは、西暦1855年-1960年中国から世界各地に広がり、とりわけインドアメリカ合衆国西海岸に広がった[4]

しかし、中世の黒死病は、第二のパンデミック初期ではなく、第一のパンデミック末期とみなされることもある。その場合は、二番目のパンデミックの始まりは1361年とされる。また第二のパンデミック収束時期についても、文献により各種の見解の相違がある(1840年ではなく1890年という記載もある[1])。
古代

ペストは、ペスト菌の感染によって引き起こされる重篤な感染症である[5]。ペスト菌は、日光や乾燥・熱に対する抵抗は弱い一方で寒冷や湿潤に対しては強い耐性を持ち、したがって動物の体内で乾燥を受けなければ長期間生存することができ、穀類・獣乳・用水などでも生息が可能である[5]。ペストは元来ネズミなど齧歯類の感染症であるため、一般的には、ヒトが感染する以前にネズミの集団のなかで流行がみられる[5]。齧歯類の個体相互にペスト菌を媒介するのはノミであるが、多数のペスト菌を保持したノミがヒトの皮膚を刺し、やがてヒト相互のあいだでノミが菌を伝播させる[5]腺ペストの流行はこうして発生し、ノミの多い夏季に多くみられる[5]。しかし、腺ペスト患者が敗血症肺炎(ペスト性)に罹り、喀痰のなかにペスト菌が認められるにおよぶと、飛沫感染によって直接的に、あるいはまた、排泄物や衣類等日用品によって間接的にも急激に感染が広まり、流行が生じる[5]。これが肺ペストであり、冬季間でも発生する[5]。そして、ネズミの移動とともに感染もまた各地に広がるのである[6]

東アジア西アジア地中海世界をつなぐシルクロードは、2世紀以降、漆器などを西方に、宝石やガラス器、金銀細工や絨毯などの文物を東方にもたらしたが、同時にさまざまな感染症を交換させた[6]天然痘麻疹は西から東に運ばれ、ペストは東から西へともたらされた[6]。こうした感染症に対し、人びとは免疫をもたなかったので、東西でパンデミックが生じ、多くの人命が失われた[6]
「アテナイのペスト」

ペロポネソス戦争のさなかの紀元前429年篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリスアテナイ(アテネ)を感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出したことがトゥキュディデスの『戦史』第2巻に記載されている[7]。この疫病は、発熱、発疹を症状とする致死性の疾患で、かつて「アテナイのペスト」と呼ばれていた[8]。しかし、記録された症状だけでは、他のさまざまな感染症の可能性をも示しており[7]、今日では、具体的な疾病名の確定は不可能とされ[7]、むしろ痘瘡天然痘)または発疹チフス(あるいはそれらの同時流行)の可能性が高いとみられている。トゥキュディデス自身もこの疫病に罹り、回復したが、その症状は、激しい頭痛、目の炎症、喀血、咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱というものであった[注釈 1]。この結果からも、ペスト説はいまや完全に否定されたといってよい。
アントニヌスのペスト詳細は「en:Antonine Plague」を参照ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス

ペストは、上述のように、シルクロード交易によって東方から西方に伝わった感染症で、すでに1世紀?2世紀、エジプトからシリアにかけて、大流行したとの記録もある[5]ローマ帝国においても、その最盛期にあたる五賢帝時代に300万人を超える死者を出している[6]。それが、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世(165年?180年)に発生した流行で、「感染した人の25%から33%が死亡」し、「350万から700万人ほどの人々が死んだ」とされる[10]。これは、皇帝の名を採り、「アントニヌスのペスト(英語版)」と呼ばれる。流行は、その後も断続的につづいたと考えられる[6]
ユスティニアヌスのペスト詳細は「en:Plague of Justinian」を参照ユスティニアヌス1世(483-565)

記録に残る歴史的な大流行としては、542年から543年にかけてユスティニアヌス1世(在位527年-565年)治下の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)全版図で流行したペストが著名であり[6]、現代の病態分類では主として腺ペストだったと推定されている[11]東ローマ皇帝ユスティニアヌス自身も感染したため「ユスティニアヌスの疫病」「ユスティニアヌスの斑点」ないし「ユスティニアヌスのペスト(英語版)」と称される[6][11]。史家プロコピオスによれば、首都コンスタンティノープルでは連日5000人規模の感染死者が発生し、人口の4割もの人びとを失ったという[6]

ペストは、エジプトペルーシウムからパレスティナ地方へ、さらには帝都コンスタンティノポリスへと広がって多くの死者が発生し、帝国は一時機能不全に陥るほどであった。542年には旧西ローマ帝国の領域に侵入し、ブリテン島周辺には547年に、フランスへは567年に広がって、ヨーロッパ近東アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行し続けたと記録されている[11]


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