ペシャワール
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ペシャーワル
?????


カニンガム時計塔
座標 : 北緯34度00分 東経71度30分 / 北緯34.000度 東経71.500度 / 34.000; 71.500
行政
 パキスタン
 カイバル・パクトゥンクワ州
ペシャーワル
市長Haji Ghulam Ali
その他
等時帯パキスタン標準時 (UTC+5)
市外局番091
ペシャーワル博物館

ペシャーワル(パシュトー語で?????、ウルドゥー語で?????、アルファベット表記でPeshawar)は、パキスタンカイバル・パクトゥンクワ州の州都である。また、連邦直轄部族地域(トライバルエリア、FATA)の行政上の中心地である。人口122万人(2007年現在)。

ペシャーワルはペルシャ語で「高地の砦(High Fort)」という意味である。西に50km行けばカイバル峠があり、アフガニスタンとの国境にとても近い。

日本ではペシャワール、ペシャワルとも表記される。
目次

1 歴史

1.1 カニシカ王以前のペシャーワル

1.2 仏教全盛時代のペシャーワル

1.3 イスラーム化以後のペシャーワル


2 気候

3 交通

4 姉妹都市

5 脚注

6 関連項目

歴史
カニシカ王以前のペシャーワル

ペシャーワルは、カイバル峠からわずか50kmという地理的条件から古代より多くの民族の支配を受けてきた歴史を持つ。紀元前6世紀にはガンダーラの王国の支配を受けた。また、ハラッパーを中心とするインダス文明バクトリア地方とを結ぶ結節点の役割を果たしてきた。歴史学者のTertius Chandlerによると、紀元前100年ごろには、ペシャーワルの町には12万人の人口を誇り、当時では世界で7番目に大きな都市であったという[1]

ヴェーダの文献に従うとプシュカラヴァーティと呼ばれる町が『ラーマーヤナ』の時代にあったとされる[2]。しかし、この町の存在自体は考古学の研究においては妥当ではないとされる[3] 。記録に残っている歴史では、ペシャーワルにおける最古の都市は、サンスクリットで「人間の都市」を意味するプルシャプラ(Purushapura)がクシャーナ朝によって建設されたことから始まる[4]クシャーナ朝以前のペシャーワルは、ハカーマニシュ朝アレクサンドロス3世の大帝国の支配を受けていたと考えられている。アレクサンドロス3世のディアドコイであるセレウコス1世チャンドラグプタと争い、インドからの撤退を余儀なくされた。その後、ペシャーワルはマウリヤ朝の支配を受け、マウリヤ朝の時代に仏教が伝来した[5]

ペシャーワルを含む地域は、グレコ・バクトリア王国の王en:Eucratides I(在位紀元前170年から159年)によって支配され、のちに、インド・グリーク朝へと発展を遂げた。インド・グリーク朝は現在のパキスタンから北インド一体を支配するにいたった。その後も中央アジアから多くの民族(パルティア、イラン系諸民族)がペシャーワルに侵入した。その中で、最も有名なのが、インド・パルティア王国を建国したとされるゴンドファルネスである。彼は、紀元前46年にペシャーワルへの侵攻を開始した。
仏教全盛時代のペシャーワル カニシカ王のストゥーパ

ペシャーワルが、ガンダーラ地方の中心部を構成するようになったのはクシャーナ朝カニシカ王の時代である。少なくとも西暦127年に即位したカニシカ王は、ペシャーワルを仏教研究の中心へと発展させた。当時としては最大級の釈迦の遺骨を納めるストゥーパを建設する一方で、ペシャーワル旧市街には、Ganj Gateと呼ばれる門を建設した。

カニシカ王が建設したストゥーパは、アフガニスタンの山々からガンダーラ平原に降り立った人々を大いに驚嘆させる建築物であったと伝えられている。400年ごろ、中国から経典を求めてインドへ旅した僧法顕は、カニシカ王のストゥーパについて記録した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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