ペイライエウス
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ピレウス
(ピレアス)
Πειραι??

ピレウス港および市街

所在地
ピレウス
(ピレアス)
座標北緯37度57分 東経23度38分 / 北緯37.950度 東経23.633度 / 37.950; 23.633座標: 北緯37度57分 東経23度38分 / 北緯37.950度 東経23.633度 / 37.950; 23.633
域内の位置 
行政
国: ギリシャ
地方:アッティカ
:ピレウス県
人口統計 (2011年)
ディモス
 - 人口:163,688 人
 - 面積:10.865 km2
 - 人口密度:15,066 人/km2
都市圏
 - 人口:448,977 人
 - 面積:50.417 km2
 - 人口密度:8,905 人/km2
その他
標準時:EET/EEST (UTC+2/3)
公式サイト
http://www.pireasnet.gr

ピレウス(ギリシア語: Πειραι?? / Pireas)は、ギリシャアッティカ地方にある港湾都市で、アテネの首都圏を構成する。古代にはペイライエウス (古代ギリシア語: Πειραιε?? / Peiraieus)と呼ばれ、アテナイの外港都市として発展した。アテネ市中心部から南西12km、サロニコス湾の東に位置する。今日ではエーゲ海の島々への船が、ピレウス港から出ていて、エーゲ海クルーズの拠点である。ピレウスは2011年時点ではギリシャ第4の都市であり、アテネ首都圏ではアテネに次いで人口が多い。ピレウス港(英語版)はギリシャ最大の港で、年間2000万人が利用するヨーロッパ最大且つ世界第2位の旅客港である。貨物でも年間140万TEUを誇り、ヨーロッパ上位10港且つ東地中海最大である。1896年と2004年のアテネオリンピックで会場となった。

現代ギリシャ語での発音は [pire?as] であり、ピレアスと転記される。このほか、ピレエウス、ピラエウス、ピレエフスなどとも表記される。
目次

1 歴史

1.1 古代?中世

1.2 オスマン帝国時代

1.3 ギリシャ独立


2 交通

3 スポーツ

4 姉妹都市

5 脚注

6 関連項目

7 外部リンク

歴史
古代?中世 旅立つ少女と、両脇の両親(紀元前330?320年)(ピレウス考古学博物館) アテネとピレウスを繋ぐ城壁 現代のピレウス市。ミューニキアの坂を含むヒッポダミアン通り。

先史時代、ピレウス中心部のミューニキア(現在のカステラ)は浅瀬で本土と繋がっていた。この浅瀬は一年の内長い期間海水に浸かっており、干上がると塩田になった。これは塩田を意味する「ハリペドン」と呼ばれており、泥濘によって複雑な浅瀬となった。徐々に地形が変化した結果、古典古代初期には安全な土地になった。

紀元前26世紀にはピレウス周辺に人が住んでいた。

古代ギリシャ時代には、水深の大きい3つの港を持つピレウスは重宝され、古く浅いファレルム(英語版)港から徐々に役割を奪った。3つの港は大規模なカンタルスと小規模なゼア、ムニチアからなった。

紀元前511年ヒッピアスがミューニキアを要塞化した。

紀元前507年クレイステネスがピレウスをアッティカ地方に組み入れた。

紀元前493年アテネの政治家テミストクレスがファレルム港にかわる海軍基地として建設した。

紀元前483年、アテネ海軍がピレウスに移転した。

紀元前480年、アテネ海軍はアケメネス朝ペルシア相手にサラミスの海戦で大きな役割を果たした。以降ピレウスは海軍基地として使用されている。ペルシアの第2次ギリシャ侵攻(英語版)(紀元前480?479年)の後、テミストクレスはピレウスの3つの港を要塞化し、ネオソイコイ(舟屋)を建てた。

紀元前471年、テミストクレスの壁が完成した事により、ピレウス港は軍事的にも商業的にも重要な港になった。ミレトスの都市計画家ヒッポダモスによって市街が碁盤の目状に整備された。彼の名前は中心部の広場に残っている。また、ピレウス港を拠点とする海上貿易を生命線とするポリスであるアテネを防衛する軍事戦略として、キモンペリクレスが都市アテネと都市ピレウスの間の街道を両都市を囲む城壁から延長・要塞化し、一種の双子都市として防御した。

紀元前430年ペロポネソス戦争中のペスト発生によって、ピレウスは初めて衰退した。

紀元前404年スパルタリュサンドロス (提督)がピレウス港を封鎖し、アテネはスパルタに降伏し、デロス同盟は終了した。ピレウスの城壁とアテネとの間の長い壁はスパルタ兵によって破壊された。アテネ海軍の三段櫂船や舟屋も一部が破壊された。その結果、防御力を失ったピレウスは繁栄するロドス島に地位を譲る事になった。

紀元前403年、ミューニキアの戦い(英語版)でミューニキアはトラシュブロスとフィリ(英語版)の難民に包囲された。この戦いでフィリ人はアテネの三十人政権を打倒したが、続くピレウスの戦い(英語版)でスパルタ軍に倒された。

紀元前393年、民主制を復活させたコノンは壁を再建した。また、アフロディーテゼウスアテナの神殿を建てた。また、後にゼア港で発掘されたフィロンのスケウオテケ(弾薬庫)を建てた。ピレウスの再建はアレクサンドロス3世(在位:紀元前336年?紀元前323年)の時代まで行われた。

紀元前86年、ローマのスラがピレウスを徹底的に破壊した。

395年アラリック1世率いるゴート族が再びピレウスを破壊した。これによりピレウスは15世紀まで衰退する事になる。

東ローマ帝国時代(330年?1453年)、ピレウスは時折海軍基地として使われたが、首都のコンスタンティノープルからは遠かった。中世にはピレウス港はベネチア人に「シシネス港」と呼ばれた。

1040年東ローマ帝国ブルガリア (テマ制)(英語版)で起こったペタル・デリャンの蜂起に呼応し、反乱を起こしている。

1205年第4回十字軍によって東ローマ帝国が崩壊し、ピレウスは十字軍国家の一つであるアテネ公国の領土となった。

14世紀には港の入口に立つ古い獅子の彫刻から、ピレウスの獅子と呼ばれるようになった。後にギリシャ人にはレオネ港(Π?ρτο Λε?νε)やドラコ港(Π?ρτο Δρ?κο)と呼ばれるようになる。
オスマン帝国時代

1456年、ピレウスがオスマン帝国の一部になると、ベネチア時代から引き続き「Aslan Liman」(獅子の港)と呼ばれた。

1590年、聖スピリドン修道院がピレウスに建てられた。ピレウスは時折商業港に使われる以外は、ギリシャ独立戦争までは寂れた場所だった。


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