ベーラ4世
Bela IV
ハンガリー国王
在位1235年 - 1270年
出生 (1206-11-29) 1206年11月29日
死去 (1270-05-03) 1270年5月3日(63歳没)
ハンガリー王国、ニュラク・シゲテ
埋葬 ハンガリー王国、エステルゴム
配偶者マリア・ラスカリナ
子女キンガ
アンナ
ベーラ4世(ハンガリー語: IV Bela、1206年11月29日 - 1270年5月3日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位:1235年 - 1270年)。祖父ベーラ3世に倣った王権の強化と、1241年のモンゴル軍の侵入によって荒廃したハンガリーの復興事業により、ハンガリー王の中でも有名な人物の一人である。 1206年11月29日に、ハンガリー王アンドラーシュ2世とゲルトルードの長子として生まれる。ローマ教皇インノケンティウス3世の希望により、ベーラ4世の誕生前にハンガリー王国の聖職者たちは彼をハンガリー王位の後継者として承認する宣言を行った。 1213年9月28日に母ゲルトルードが敵対的な貴族によって殺害された時、おそらくベーラもその場に居合わせていた。アンドラーシュ2世はゲルトルードを殺害した一団の首謀者のみを罰して他の貴族を許し、ベーラは父に対する反感を抱いた。 1214年初頭にブルガリア皇帝ボリルの娘と結婚し、結婚から間も無くハンガリーの若王として戴冠される。1217年8月、アンドラーシュが第5回十字軍に参加するため中東に発った時、ベーラは母方のおじであるカロチャ大司教ベルトルトに連れられてシュタイアーに滞在し、翌年中東から戻ったアンドラーシュに続いてハンガリーに帰国した。 1220年にベーラはアンドラーシュからスラヴォニアの統治を委ねられた。同年にニカイア帝国皇帝テオドロス1世の娘マリア・ラスカリナと結婚するが、1222年に2人の縁談を取りまとめたアンドラーシュからマリアと離婚するように説得される。しかしながら教皇ホノリウス3世は2人の離婚を無効とし、マリアを連れ戻したベーラは父の怒りを避けるためにオーストリアに移動した。結局アンドラーシュは折れてベーラを許し、ベーラはスラヴォニア以外にダルマチア、クロアチアの統治も委任された。 1226年にベーラはトランシルヴァニアの統治を任され、ドミニコ会修道士によるドニエストル川流域の西に居住するクマン人への布教を支援した。布教の結果、クマン人の部族長の中に洗礼を受けてベーラの支配を受け入れた者も現れる。 1234年にアンドラーシュが30歳年下のベアトリーチェを妻に迎えると、ベーラとアンドラーシュの関係はより悪化する。1235年9月21日にアンドラーシュが没した後ベーラはハンガリー王位を継ぎ、10月14日にセーケシュフェヘールヴァールでエステルゴム大司教ロベルトから戴冠を受けた。即位直後に若い継母と父の側近を告発し、彼らの逮捕を命じた。 ハンガリー王に即位した直後のベーラは、王権の回復と維持を試みた[1]。貴族に土地と特権を付与したアンドラーシュの政策とは逆に、ハンガリーで施行されていた城単位の県制度と王領の復帰を試みた[2][3]。教皇の認可を得て、アンドラーシュが治世の初期に貴族に付与した王領の回収を行い、それまでは一般的ではなかった文書の使用を義務付けた[4]。また、王室顧問会議場から貴族たちの椅子を運び出して焼却し、出席者に国王への敬意を強く求める[5]。この領地の回収を初めとする強硬な政策に、貴族たちは不満を抱く[4][6]。さらに都市の地位を高めるため、1237年にセーケシュフェヘールヴァールに関税免許、判事の選出権などの特権を付与した[7]。次いでペシュト、エステルゴム、ナジソンバト、シェルメツバーニャ、ニトラなどの領内の主要な都市にも、新たに特権を付与した[7][8]。 時代を遡り、1235年にドミニコ会の修道士ユリアヌス モンゴルの侵入に備え、1239年末にカルパティア山脈峡谷部に木の城砦を築き、翌1240年にルーシからモンゴルの脅威を伝える報告が伝えられるとブダで僧侶・貴族を招集しての会議の開催を決定する。1241年のブダの会議ではクタンとクマン人の逮捕、防衛策について協議されたが、会議中に3月12日にバトゥ指揮下のモンゴル軍が国境を突破した報告が届けられる[10]。
生涯
幼年期
若王時代
治世の初期
モンゴル軍の侵入モヒの戦いで逃亡するベーラ4世(右から2人目の王冠をかぶった人物)「モンゴルのポーランド侵攻」も参照