ベーラ3世
III. Bela
ハンガリー国王
クロアチア国王
在位1172年5月4日 - 1196年4月23日
戴冠式1173年1月13日
出生1148年
死去1196年4月23日
埋葬 ハンガリー王国、セーケシュフェヘールヴァール
配偶者アニェス・ド・シャティヨン
マルグリット・ド・フランス
子女イムレ
マルギト
アンドラーシュ2世
コンスタンツィアなど
家名アールパード家
王朝アールパード朝
父親ゲーザ2世
母親エウフロシネ・ムスチラヴァ
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ベーラ3世
ベーラ3世 (ハンガリー語: III. Bela、クロアチア語: Bela III、スロバキア語: Belo III、1148年頃 - 1196年4月23日)は、 ハンガリー王国アールパード朝のハンガリー国王、およびクロアチア国王
(在位:1172年 - 1196年)。ハンガリー王ゲーザ2世とエフロシニヤ・ムスチスラヴナの次男にあたる。1161年頃にベーラは母のエフロシニヤからクロアチア、ダルマチア中央部、シルミウムを含む公国を授与された。1162年にハンガリー王に即位した兄イシュトヴァーン3世と東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスの間に結ばれた条約によって、ベーラは1163年にコンスタンティノープルに移送される。コンスタンティノープルに送られたベーラはマヌエル1世から「アレクシオス」の名前、上級の宮廷職として新設されたデスポトの称号を与えられ、マヌエル1世の娘マリア・コムネナとの婚約が取り決められた。イシュトヴァーン3世はベーラの世襲地であるクロアチア、ダルマチア、シルミウムにおける東ローマの支配力の抑制を試み、1164年から1167年にかけてハンガリーと東ローマの間に武力衝突が発生する。1165年にマヌエル1世から帝位継承者に指名されたベーラは3度にわたるハンガリー遠征に従軍した。1169年にマヌエル1世が男子(後の東ローマ皇帝アレクシオス2世)を授かると、ベーラとマリアの婚約は解消される。マヌエル1世はベーラからデスポトの称号を没収し、下位のカエサルの称号を授与した。
1172年3月4日にイシュトヴァーン3世が没した時、ベーラはハンガリーへの帰国を決意し、出発に際して東ローマとの戦争を行わないことを誓約した。ハンガリーの高位聖職者と貴族は満場一致でベーラの即位を承認するが、エステルゴム大司教
ルカーチはベーラの聖職売買の疑惑を挙げて即位に反対した。最終的に教皇アレクサンデル3世の承認を受けて、1173年1月18日にベーラはカロチャ大司教からハンガリー王に戴冠された。即位したベーラは競争相手である弟のゲーザを逮捕し、10年以上にわたって彼を獄中に監禁する。マヌエル1世の死後に東ローマ内で起きた混乱に乗じて、ベーラはクロアチア、ダルマチア、シルミウムを東ローマから奪回した。1188年にはガーリチ公国を占領するが、2年足らずで喪失した。ベーラ3世は当時のヨーロッパの君主の中で最も裕福な人物とされているが、その根拠となる収入表の信憑性は疑問視されている。ベーラ3世の時代には筆写による記録が推進され、14世紀以降のハンガリーの年代記ではベーラは宮廷裁判所の確立に大きな役割を果たしたことが述べられている。