ベーナズィール・ブットー
Benazir Bhutto
パキスタン
第14代 首相
任期1993年10月19日 – 1996年11月5日
パキスタン
第20代 財務大臣
任期1994年1月26日 – 1996年10月10日
パキスタン
第17代 財務大臣
任期1988年12月4日 – 1990年12月6日
パキスタン
第19代 国防大臣
任期1988年12月4日 – 1990年8月6日
パキスタン
第12代 首相
任期1988年12月2日 – 1990年8月6日
出生 (1953-06-21) 1953年6月21日
パキスタン、カラチ
死去 (2007-12-27) 2007年12月27日(54歳没)
パキスタン、ラーワルピンディー
政党パキスタン人民党
配偶者アースィフ・アリー・ザルダーリー
ベーナズィール・ブットー[1](Benazir Bhutto、シンド語:?????? ????、ウルドゥー語: ?????? ????)は、パキスタンの政治家、元首相(1953年6月21日 - 2007年12月27日)。イスラム諸国家における初の女性首相であり、後に暗殺
(英語版)された。名前は、「ベナジル・ブット」とも表記される。イスラム諸国家における初の女性首相である。父であるズルフィカール・アリー・ブットー元首相が設立したパキスタン人民党(PPP)の総裁(党首)となり、1988年と1993年の2度首相に選出されているが、いずれも汚職などを理由に解任されている。2007年12月27日、政界復帰を目指して選挙運動を行っていた最中に暗殺された。
夫であるアースィフ・アリー・ザルダーリーとの間に、3人の子供がいる。 ベーナズィールは、ズルフィカール・アリー・ブットー(元首相、軍事クーデター後に処刑された)の娘としてカラチに生まれた。父方の祖父シャー・ナワーズ・ブットー
経歴
生い立ち
1969年4月、ベーナズィールはハーバード大学のラドクリフ・カレッジおよびオックスフォード大学レディー・マーガレット・ホール校で学んだ。1971年にインドが東パキスタン (現バングラデシュ) へ軍隊を派遣し、父ズルフィカールが問題解決のため外務大臣として国連へ赴いた際、彼女はカレッジを一時的に離れ、ニューヨークで父の助手を務めた。学生生活から離れ父親の活動を手伝ったことは、後の彼女の政治活動への参加に大きな経験となった。アメリカ合衆国での生活の間、彼女は様々な社会問題に活発に参加した。
1973年に彼女は政治学の学位を得てカレッジを卒業した。カレッジ在学中に彼女はファイ・ベータ・カッパ (全米優等学生友愛会) の会員に選出された。彼女は同年秋にオクスフォードに進学し、PPE(政治学・哲学・経済学)で修士号を得た。オクスフォード在学中に、彼女はオクスフォード・ユニオンの議長に就任した初のアジア女性となった。これは、彼女の対立候補が不正な調査を行ったことが原因で再選挙が実施された結果であった。
このように、彼女は大学において、父親の首相在任時の中程、国内および海外問題に関わる政治運動と、終始、論争に明けくれる日々を過ごした。 オクスフォード卒業後にパキスタンへ帰国したが、父親の監禁と処刑の過程で、彼女は自宅軟禁を受けた。1984年にイギリスへの渡航が許可され、彼女は亡命したまま、父の政党であったパキスタン人民党 (PPP) の党首に就任した。しかし、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハック将軍が死亡するまでは、彼女がパキスタンにおける政治的な存在感を示すことはできなかった。 1988年11月16日、10数年振りに施行された公開選挙において、ベーナズィールのPPPはパキスタン国民議会の単独与党の座を勝ち取った。彼女は12月2日に宣誓し、現代のイスラム諸国家で最年少 (当時35歳) かつ初の女性の政府代表、パキスタン第12代首相となった。同年、ベーナズィールはビープル誌で「世界でもっとも美しい50人」にも選出された。
政界への進出