ベン・フォールズ
ベン・フォールズ(2007年)
基本情報
出生名Benjamin Scott Folds
生誕 (1966-09-12) 1966年9月12日(57歳)
出身地 アメリカ合衆国ノースカロライナ州ウィンストン・セーラム
ジャンルソフトロック、ロック
職業ミュージシャン、作曲家、編曲家、バンドマスター
担当楽器ボーカル、ピアノ、ベース、ドラムス、キーボード、鍵盤ハーモニカ、シンセサイザー
活動期間1988年 - 現在
共同作業者ベン・フォールズ・ファイヴ
The Bens
Fear of Pop
Majosha
パンプルムース
ジュリア・ヌーネス
ベン・フォールズ(Ben Folds、1966年9月12日 - )は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ウィンストン・セーラム出身のロック・ミュージシャン。本名Benjamin Scott Folds。ヴォーカルとピアノをメインに、様々な楽器をこなすマルチプレイヤーでもある。 9歳でピアノを始める。ピアノは、大工である父親が客の家の建築と交換して手に入れたものである[1]。そしてAMラジオで流れるエルトン・ジョンやビリー・ジョエルを耳コピで演奏するようになり、高校に進学後はいくつかのバンドでピアニスト、ベーシスト、ドラマーとして演奏した。 1980年代後期、友人のミラード・パワーズ
来歴コンサートにて 2004年6月25日
無名時代
1990年のはじめ、マジョーシャは解散し、フォールズはエヴァン・オルソン(ベース)、Snuzz(ギター、ボーカル)と Pots and Pans を結成し、フォールズはドラムを演奏した。Pots and Pans はわずか1ヶ月で解散し、オルソンとSnuzz、そしてベンの弟のチャック・フォールズ(ベース)、エディ・ウォーカー(ドラム)は Bus Stop というバンド(「カンフー・ファイティング」のカバーで知られる)で活動を続けた[3][4]。
フォールズは音楽活動を続けるため、1990年にテネシー州ナッシュビルへ移った。そして、Jody's Power Bill というバンド(後のセマンティックス)にドラマーとして参加したが、正式メンバーにはならなかった。その後、メジャー・レーベルから関心をもたれ、セッション・ドラマーとなった[5]。
「ナッシュビルでは、1日に8マイル(約13km)走って、友人たちとだべって、チョコレート・チップのクッキーを食べながら歩き回って、たくさんドラムを叩く日々を過ごして楽しかった。くつろいだ生活だった。たとえ契約義務を果たしてなかったとしても、決して落ち込まなかった。もし、君がナッシュビルで失敗してるなら、少なくても君の生活水準は高いと思う。ナッシュビルは失敗する良い方法だ。[5]」
フォールズはパーカッションを学ぶためにマイアミ大学の音楽学校へ通ったが、卒業前にドロップアウトしてしまった。そして、ピアノ・テクニックを上達させるため、多くの時間を費やした。「僕は異常なほどメトロノームを走らせ、たぶん6ヶ月費やした。」フォールズは語る。「僕はどうかしてた。[6]」
フォールズはマイアミの音楽学校の学生時代の審査リサイタルについての話を観客へ話す。審査リサイタルは、全学年で進級を審査する教職員の前で準備されたレパートリーを演奏することであるが、フォールズは前の晩にルームメイトをいじめから守るために手を骨折してしまい、ドラマーとして演奏できなかった。そのため奨学金を失い、キャンパスの湖の中にドラムキットを投げ捨ててしまった[7]。
マイアミを去った後、ニュージャージー州モントクレアに移り、ニューヨークの劇団一座で行動し始めた[5]。そして、ジェフ・バックリィのキャリアの始めを助けたことで有名なカフェSin-eで、毎週ギグを行った。
その後、フォールズはノースカロライナ州へ戻り、チャペルヒルで1994年にはロバート・スレッジ(ベース)、ダレン・ジェシー(ドラム)と3人組バンドベン・フォールズ・ファイヴを結成した[8]。
ベン・フォールズ・ファイヴ詳細は「ベン・フォールズ・ファイヴ」を参照
1995年、ベン・フォールズ・ファイヴはデビューアルバム『ベン・フォールズ・ファイヴ』を発売した。1997年には、2ndアルバム『ワットエヴァー・アンド・エヴァー・アーメン』を発売し、未発表音源のコンピレーション・アルバム『ネイキッド・ベイビー・フォトズ』を1998年前半に発売した。『ワットエヴァー・アンド・エヴァー・アーメン』からは、「Brick」、「Song for the Dumped」、「Battle of Who Could Care Less」など多くのシングルがカットされた。1999年に、ラストアルバムとなる『ラインホルト・メスナーの肖像』を発売した。そのアルバムにはヒット曲「Army」が収録されている。
フォールズはこのバンドのことを「泣き虫野郎のパンク・ロック」と評しており[9]、彼の書く歌詞は憂鬱さや葛藤を湛え、しばしば冒涜的な言葉で強調された、ユーモラスな皮肉を含んでいる。
ベン・フォールズ・ファイヴのシングルは、アダルト・コンテンポラリやモダン・ロック・チャートなどの複数のビルボードのチャートに入ったが、ホット100(全米の総合チャート)には入ることができなかった。しかし、イギリスのBBC、オーストラリアのABCの強いサポートを得て、両国では人気を獲得することができた。
このグループが発表した作品で最初にイギリスのチャートに入ったものは、シングル「Undeground」で、トップ40に入って最高位は37位を記録した。その後ベン・フォールズ・ファイヴが出したシングルは、その後「Battle of Who Could Care Less」、「Kate」、「Brick」、「Army」がトップ40に入る成功を記録したが、いずれもトップ20には入れなかった。
オーストラリアでは「Underground」はARIAチャートが整備される前のチャートである Triple J Hottest 100 で1998年に3位を記録した。1998年に出したシングル「Brick」は ARIAチャートに入って最高で13位を記録して ARIAの年間チャートでは53位を記録し[10]、ゴールドディスクを認定された[11]。アルバム『ワットエヴァー・アンド・エヴァー・アーメン』は最高で9位まで上昇し、32週間チャートに滞在した。
フォールズとバンドメンバーは、2001年以降は別々に活動をするようになった。「曲はかなりの反響を呼んで、新しいアルバムを出すのが楽しみにしている。僕の人生の中で本当に自由な時間のような感じがしていて、本当に楽しんでいる。[12]」