アメリカ海軍の原子力潜水艦については「ベンジャミン・フランクリン (原子力潜水艦)」をご覧ください。
ベンジャミン・フランクリンBenjamin Franklin
ベンジャミン・フランクリン(ジョゼフ・デュプレシ画)
生年月日 (1706-01-17) 1706年1月17日
出生地 イギリス領北米植民地、マサチューセッツ湾直轄植民地ボストン
没年月日1790年4月17日(1790-04-17)(84歳)
死没地 アメリカ合衆国、ペンシルベニア州フィラデルフィア
現職政治家、物理学者
配偶者デボラ・リード
サイン
[[ファイル: アメリカ合衆国|border|25x20px|アメリカ合衆国の旗]] アメリカ大陸会議郵政長官
在任期間1775年7月26日 - 1776年11月7日
ペンシルベニア州知事
在任期間1785年10月18日 - 1788年11月5日
在フランスアメリカ合衆国全権公使
在任期間1779年3月23日 - 1785年5月17日
在スウェーデンアメリカ合衆国全権公使
在任期間1782年9月28日 - 1783年4月3日
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ベンジャミン・フランクリン(英語: Benjamin Franklin, グレゴリオ暦1706年1月17日<ユリウス暦1705年1月6日>[注釈 1] - 1790年4月17日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている[注釈 2]。現行の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、1963年まで米50セント硬貨にも肖像が用いられた。
恋人もいたが余命が短いことがわかり振られた。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つである。
家族と生い立ち100ドル紙幣に描かれているフランクリン
ベンジャミン・フランクリンの父親、ジョサイア・フランクリンは1657年12月23日にイングランド王国のノーザンプトンシャー、エクトンで鍛冶屋および農民のトマス・フランクリンと妻のジェーン・ホワイトの間に生まれた。フランクリンの母親アビア・フォルジャーは1667年8月15日にマサチューセッツ湾植民地ナンタケットで製粉業者および教師のピーター・フォルジャーと妻のメアリー・モリス・フォルジャーの間に生まれた。
1677年頃にジョサイアはエクトンでアン・チャイルドと結婚した。1683年の後半に夫妻はイングランド王国を発ち、イギリス領北米植民地のマサチューセッツ湾植民地ボストン市に向かった。
アンはボストンで7月9日に死去し、ジョサイアは11月25日にアビアと再婚した。有名な凧揚げ実験は、本人ではなく彼の婚外子が行っている[1]。
年譜
1706年1月6日(ユリウス暦)、ボストンのミルク・ストリートで生まれる。父親のジョサイア・フランクリンは獣脂ろうそく製造を行っていた。ジョサイアは二度の結婚で17人の子供をもうけた。ベンジャミンはその15番目であった。
1716年、10歳で学校教育を終える。
1718年、『ニュー・イングランド・クーラント』紙を印刷出版していた兄のジェームズの徒弟となった。その後、次第に記者や編集者として頭角を現した。同紙の自由主義的論調により兄が投獄されたときは、代わりに発行人となったこともある。
1723年1月、総会(ジェネラル・コート)はジェームズにボストン市内での印刷を禁止する命令を出した。しかし印刷屋の名義を兄からベンジャミンに替え、クーラント紙を継続した。ベンジャミンは兄との何度かの喧嘩の末に縁を切り、ボストンを出ることを決意した。同年秋にボストンを後にし、当初はニューヨークへ向かったが印刷工の職はなく、すぐにフィラデルフィアに移って職を得た[2]。
1724年、知事の勧めによりロンドンに行き、植字工として働く。
1726年に帰国、印刷業を再開する。
1729年、植民地時代もっとも読まれていた『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買収。アメリカ初のタブロイド誌を発行。
1730年、フィラデルフィアのセントジョーンズ・ロッジ(St. John’s Lodge)にてフリーメイソンに入会[3][注釈 3]。
1731年、フィラデルフィアにアメリカ初の公共図書館(フィラデルフィア組合図書館)を設立する。この図書館は成功を収め、これを規範にアメリカの他の都市にも図書館が開設されるようになった。
1734年、『貧しいリチャードの暦』[注釈 4]を発案し、よく知られるようになった。[4]
1734年、ウォーター・ストリートのタン・タヴァンのフリーメイソンリー(フリーメイソン)のロッジで、グランド・マスターに選ばれた。
1737年、フィラデルフィアで郵便局長に就任。
1743年、アメリカ学術協会を設立した。
1748年、印刷業から手を引き、公職に専念するようになる。ペンシルベニア植民地議員や郵便総局長をつとめた。啓蒙思想の普及に身をささげた。
1751年、フィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)を創設。
1753年、英領北米郵政副長官。
1754年に勃発したフレンチ・インディアン戦争ではイギリス軍のための軍需品調達に奔走した。オルバニー会議で植民地の連合計画を提案。
1757年、植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣された。このとき、彼の科学的な業績を称えオックスフォード大学にて名誉学位を授与されている。
1761年、ガラス製の楽器 グラス・ハーモニカ を発明