ベンジャミン・ディズレーリ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「ディズレーリ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ディズレーリ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

イギリス政治家初代ビーコンズフィールド伯爵
ベンジャミン・ディズレーリBenjamin Disraeli
1st Earl of Beaconsfield
ディズレーリ(1878年)
生年月日1804年12月21日
出生地 イギリスロンドン
没年月日 (1881-04-19) 1881年4月19日(76歳没)
死没地 イギリス、ロンドン
前職小説家
所属政党保守党
称号初代ビーコンズフィールド伯爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)
配偶者メアリー
親族カニングスビー(英語版)(甥)
サイン
首相
在任期間1868年2月27日 - 1868年12月3日[1]
1874年2月20日 - 1880年4月18日[1]
女王ヴィクトリア
大蔵大臣
内閣第一次ダービー伯爵内閣
第二次ダービー伯爵内閣
第三次ダービー伯爵内閣
在任期間1852年2月27日 - 1852年12月17日
1858年2月25日 - 1859年6月[2]
1866年7月6日 - 1868年2月27日[2]
貴族院議員
在任期間1876年 - 1881年[3]
庶民院議員
選挙区メイドストン選挙区(英語版)[3]
シュルーズベリー選挙区(英語版)[3]
バッキンガムシャー選挙区(英語版)[3]
在任期間1837年7月24日 - 1841年6月29日[3]
1841年6月29日 - 1847年7月29日[3]
1847年7月29日 - 1876年8月21日[3]
テンプレートを表示

初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(英語: Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS1804年12月21日 - 1881年4月19日)は、イギリス政治家小説家貴族

ユダヤ人でありながら保守党内で上層部に上り詰めることに成功し、ダービー伯爵退任後に代わって保守党首となり、2期にわたって首相(在任:1868年、1874年 - 1880年)を務めた。庶民院の過半数を得られていなかった第一次内閣は、短命の選挙管理内閣に終わったが、庶民院の過半数を制していた第二次内閣は「トーリー・デモクラシー(Tory democracy)」と呼ばれる一連の社会政策の内政と帝国主義の外交を行って活躍した。自由党ウィリアム・グラッドストンと並んでヴィクトリア朝政党政治を代表する人物である。また、小説家としても活躍した。野党期の1881年に死去し、以降ソールズベリー侯爵が代わって保守党を指導していく。
概要

作家の息子としてロンドンに生まれる。イタリアからの移民のセファルディム系ユダヤ人の家系だった。13歳の時にイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし事務所の業務に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。さらに処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ(英語版)』を出版して評判になるも激しい批判を集めた。

その後しばらく南欧近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば庶民院議員選挙に出馬するようになり、四度の落選を経て、1837年の解散総選挙(英語版)で初当選を果たす。保守党に所属していたが、サー・ロバート・ピール准男爵内閣に入閣できなかったことに反発して、党内反執行部小グループ「ヤング・イングランド(英語版)」を結成・主導、また小説『カニングスビー(英語版)』や『シビル(英語版)』を執筆してピール批判を行った。1846年にピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂をもたらした。

党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として台頭するようになり、1849年からは実質的な保守党庶民院院内総務(英語版)となり(1851年に正式に就任)。1852年2月に保守党党首ダービー伯爵の内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられた。その後も1858年(第二次ダービー伯爵内閣)、1866年?1868年(第三次ダービー伯爵内閣)とダービー伯爵内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第三次ダービー伯爵内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第二次選挙法改正を達成した。

1868年にダービー伯爵が病気で退任すると、保守党ナンバー・ツーのディズレーリが継承する形で保守党党首、首相に就任した。第一次ディズレーリ内閣は少数与党政権だったので、腐敗行為防止法案や公開死刑廃止法案など、超党派的法案のみを可決させた。同年の総選挙(英語版)で保守党が敗れた結果、自由党党首ウィリアム・グラッドストンに首相職を譲って退任することとなった。これは総選挙の敗北を直接の事由として首相が退任した最初の事例であり、議会制民主主義の確立のうえで重要な先例となった。

以降5年ほどは野党党首に甘んじ、グラッドストン政権の弱腰外交政策を批判した。その間、小説『ロゼアー(英語版)』を出版してベストセラーになっている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:779 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef