公用語ペルシア語、アラビア語、ベンガル語
首都ガウル、 パーンドゥアー、ソーナールガーオン
スルターン
xxxx年 - xxxx年不明
変遷
成立1342年
滅亡1576年
通貨タカ
ベンガル・スルターン朝(ベンガル・スルターンちょう、英語:Bengal Sultanate)は、東インドに存在したイスラーム王朝(1342年 - 1576年)。ベンガル王国とも呼ばれる。首都はガウル(ゴウル)とパーンドゥアー。今日の国家がバングラデシュ、インド (ビハール州) (ジャールカンド州) (西ベンガル州) (トリプラ州)とミャンマーのラカイン州。 デリー・スルターン朝のトゥグルク朝の時代、1330年代にムハンマド・ビン・トゥグルクが失政を重ねたことにより、各地で反乱が起きた。南インドではすでに、1334年にマドゥライ・スルターン朝というムスリム王朝が成立し、1336年にはヒンドゥー王朝
歴史
前期イリヤース・シャーヒー朝
そして、1342年にベンガル地方の長官シャムスッディーン・イリヤース・シャーもトゥグルク朝から独立し、ベンガル・スルターン朝を建国した(前期イリヤース・シャーヒー朝)[1][2]。創始者シャムスッディーン・イリヤース・シャーはベンガルの独立を強く意識し、その正当性と権威と明白にするため、自分の硬貨に「第2のアレクサンドロス、カリフの右腕」と記している[1]。
しかし、1353年にトゥグルク朝の君主フィールーズ・シャー・トゥグルクは失地回復のためベンガルへと軍を進め、ベンガルの首都パーンドゥアーを攻め落とした[2]。だが、イリヤース・シャーはエクダーラーの要塞に籠城したため[3]、1354年にトゥグルク朝の軍はデリーへと引き上げた[2]。
その息子シカンダル・シャーの時代、1358年にフィールーズ・シャー・トゥグルクが再びベンガルに攻めてきたが、トゥグルク朝の軍は苦戦し、1359年に和平協定が結ばれベンガル王国は独立を認められた[4][5]。その後、1389年にシカンダル・シャーはその息子ギヤースッディーン・アーザム・シャーによって殺害された[1][4]。
ギヤースッディーン・アーザム・シャーは1405年、1407年に明の永楽帝に使者を送り朝貢するなど、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる[4][6]。また、彼はメッカ、メディナのマドラサ建設費用を負担している[1]。
1410年、ギヤースッディーン・アーザム・シャーは死亡し、有力な家臣の一人でヒンドゥー教徒のラージャ・ガネーシャが政治の実権をもつようになった。その後もラージャ・ガネーシャの専横は増し、1414年にシハーブッディーン・バーヤズィード・シャー
を殺害し、同年にはその息子アラーウッディーン・フィールーズ・シャーも退位させて王位を簒奪した[5]。