ベルン
[Wikipedia|▼Menu]

ベルン
Bern
Berne


ベルン歴史博物館(左上)、連邦院(右上)、旧市街(下)


基礎自治体(Einwohnergemeinde)

位置

ベルンの位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ベルンベルン (スイス)スイスの地図を表示ベルンベルン (ベルン州)ベルン州の地図を表示

座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯46度57分0秒 東経7度27分0秒 / 北緯46.95000度 東経7.45000度 / 46.95000; 7.45000
行政
スイス
  (Kanton)Wappen des Kantons Bernベルン州
 区 (Verwaltungskreis)Wappen des Amtsbezirk Bernベルン=ミッテルラント区
 基礎自治体(Einwohnergemeinde)ベルン
地理
面積 
  基礎自治体(Einwohnergemeinde)域51.6 km2 (19.9 mi2)
標高542 m (1,778 ft)
人口
人口(2015年現在)
  基礎自治体(Einwohnergemeinde)域140,567[1]
    人口密度  2,724人/km2(7,064人/mi2)
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号3000?3030
市外局番0351
公式ウェブサイト : ⇒http://www.bern.ch/

ベルン(標準ドイツ語:Bern [b?rn] ( 音声ファイル)、スイスドイツ語ベルン方言:Barn [b?a?rn](ベァールン)、フランス語:Berne [b??n](ベルヌ)[2]イタリア語:Berna [?b?rna](ベルナ)、ロマンシュ語:Berna [?b?rn?] ( 音声ファイル)(ベルナ)、英語:Bern、Berne [b?rn]、[b?rn] (バーン、ベアン))は、スイス連邦首都[注釈 1]

ベルン州州都でもある。人口は140,567人(2015年[1]で、チューリッヒジュネーヴバーゼルに次ぐ4番目の規模の都市である。「ベルン」の語源は伝承によれば熊であるとされ、熊が市の紋章にもなっている。スイス連邦議会議事堂の所在地であるほか、万国郵便連合などの国際機関も置かれている。ドイツ語圏に属する。
歴史ベルン大聖堂

1191年、街はツェーリンゲン大公のベルトルト5世によってアーレ川沿いに創設された。伝承では市名は: Bar)に由来し、公爵が殺した熊に因んで名づけられたとされる。しかし、学問的にはイタリアヴェローナ(Verona)に由来すると説明されることが多い[3]。 ベルトルト5世が世継ぎの無いまま亡くなり、ツェーリンゲン家が断絶した後の1218年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって、あるいは1274年 ルドルフ・フォン・ハプスブルクによって街は帝国自由都市となり、積極的に周辺領域を購入して都市国家を形成してゆき、16世紀には13000km2(今日のスイスの約?)の面積を占めるまでになった。中世における重要な産業は皮なめし業であり、晩期の人口は約5000人を数えた[4]

1339年、西スイス貴族層の反発を「ラウペンの戦」での勝利で退け、1353年、初期のスイス連邦に加入し、新しい国家の主導的なメンバーとなった。1415年に他の小さな領地と共にアールガウに、1536年ヴォーに侵攻し、それによってアルプス以北で最も大きな都市国家となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef