ベルンハルト・リーマン
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン
肖像(1863年)
生誕 (1826-09-17) 1826年9月17日
ハノーファー王国、ブレゼレンツ
死没 (1866-07-20) 1866年7月20日(39歳没)
イタリア王国ヴェルバーニア セラスカ[1]
国籍ドイツ
研究分野数学
研究機関ゲッティンゲン大学、ベルリン大学
出身校ゲッティンゲン大学
博士課程
指導教員カール・フリードリヒ・ガウス
主な業績リーマン関連リスト(英語版)
影響を
受けた人物モーリッツ・アブラハム・シュテルン、ベンヤミン・ゴルトシュミット、カール・フリードリッヒ・ガウスカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビペーター・グスタフ・ディリクレフェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタインヴィルヘルム・ヴェーバー、ゲオルク・カール・ウルリッヒ、ヨハネス・ベネディクト・リスティング[2]
影響を
与えた人物エルンスト・クンマーレオポルト・クロネッカーリヒャルト・デーデキント
署名
プロジェクト:人物伝
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン(ドイツ語: Georg Friedrich Bernhard Riemann, 1826年9月17日 - 1866年7月20日)は、ドイツ数学者解析学幾何学数論の分野で業績を上げた。アーベル関数に関する研究によって当時の数学者から高く評価されたが、先駆的な彼の研究は十分に理解されず、20世紀になって彼のそれぞれの研究分野で再評価されるようになった。19世紀を代表する数学者の一人である。

彼の名前が残っている数学用語に、リーマン積分コーシー=リーマンの方程式、リーマンのゼータ関数、リーマン多様体、リーマン球面リーマン面リーマン=ロッホの定理リーマン予想などがある。また、小惑星(4167) Riemannは彼にちなむ[3]
生涯

ハノーファー王国ダンネンベルク (Dannenberg) 近くの小村ブレゼレンツ (Breselenz) に牧師の息子として生まれた。幼少期から、彼は非常に内気で内向的だったという[4]1847年に、ゲッティンゲン大学に入学、カール・フリードリヒ・ガウスと初めて出会った。同年ベルリン大学に移り、ペーター・グスタフ・ディリクレカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビフェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタインから楕円関数論や偏微分方程式論を学んだ。1849年にゲッティンゲン大学に戻り、1851年にガウスのもとで論文「1複素変数関数の一般理論の基礎づけ」を提出して博士号を取得、1854年には「幾何学の基礎にある仮説について」で大学教授資格を取得した。ガウスは若い数学者をほとんど評価しなかったが、リーマン幾何学に関する講演は高く賞賛した。二つの論文によって、複素解析の基礎づけとリーマン幾何学を確立した。

1857年に予備教授となり、1859年にディリクレの後継者として正教授になった。1862年に妹の友人エリーゼ・コッホと結婚し娘が生まれたが、この時期から結核の病状が悪化してイタリアで療養するようになった。1866年、旅の途中にマッジョーレ湖の近くで39歳で亡くなった。その生涯についてはリーマン全集に掲載されたリヒャルト・デーデキントの小伝がある[5]
主要な業績

複素解析の分野はオーギュスタン=ルイ・コーシーが独力で研究していたが、リーマンは1851年の学位論文でコーシー=リーマンの微分方程式を複素関数の定義として(コーシーは複素関数の一種として定義し、単性関数と呼んでいた)、さらに写像リーマン面など新たな成果を組み込むことで複素解析の基礎づけと共に理論的な発展をさせることになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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