ベルンハルト・フォン・ビューロー
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ドイツ帝国政治家ベルンハルト・フォン・ビューローBernhard von Bulow
ベルンハルト・フォン・ビューローの肖像写真
生年月日1849年5月3日
出生地 ドイツ連邦 /  デンマーク
ホルシュタイン公国、クライン=フロットベック
没年月日 (1929-10-28) 1929年10月28日(80歳没)
死没地 イタリア王国ローマ
所属政党無所属
称号侯爵Furst
親族ベルンハルト・エルンスト・フォン・ビューロー(父)
カール・ウルリヒ・フォン・ビューロー(弟)
サイン
ドイツ帝国
第4代帝国宰相
内閣フォン・ビューロー内閣
在任期間1900年10月17日 - 1909年7月10日
皇帝ヴィルヘルム2世
プロイセン王国
第26代首相
内閣フォン・ビューロー内閣
在任期間1900年10月17日 - 1909年7月14日
国王ヴィルヘルム2世
ドイツ帝国
第4代外務長官
内閣ホーエンローエ=シリングスフュルスト内閣
フォン・ビューロー内閣
在任期間1897年10月20日 - 1900年10月23日
皇帝ヴィルヘルム2世
プロイセン王国
外務大臣(ドイツ語版)
内閣ホーエンローエ=シリングスフュルスト内閣
フォン・ビューロー内閣
在任期間1897年10月20日 - 1900年10月23日
国王ヴィルヘルム2世
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ベルンハルト・フォン・ビューロー
Bernhard von Bulow
(1870年)
所属組織 プロイセン陸軍
軍歴1870年 - 1871年
最終階級 陸軍中尉
除隊後外交官、政治家
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ベルンハルト・ハインリヒ・カール・マルティン・フォン・ビューロー侯爵ドイツ語: Bernhard Heinrich Karl Martin von Bulow, 1849年5月3日 - 1929年10月28日)は、プロイセン及びドイツ貴族軍人外交官政治家1900年から1909年までドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の下、帝国宰相を務めた。爵位は侯爵でプロイセン陸軍の最終階級は中尉。
生い立ちと家系

ホルシュタイン、クライン=フロットベック(現在はハンブルクの一部)に生まれる。大叔父のハインリヒ・フォン・ビューローはプロイセン王国の外交官で、1827年から1840年まで駐英公使を務めた。夫人はヴィルヘルム・フォン・フンボルトの娘である。ビューローの父ベルンハルト・エルンスト・フォン・ビューローデンマークおよびドイツ諸国の宮廷に仕え、ビスマルク内閣の帝国外務長官を務めた。また、弟に軍人となり少将まで累進したカール・ウルリヒ・フォン・ビューローがいる。カール・ウルリヒは1914年第一次世界大戦では、騎兵を指揮してリエージュの戦いに参加した。ビューローが英語とフランス語を理解できたのは、幼い頃に家庭教師に習ったためだという。父親はフランス語、母親は英語を話したが、ハンブルクでは珍しいことではなかった。1856年、父エルンストはプロイセン代表としてオットー・フォン・ビスマルクが出席していたフランクフルトの連邦議会に、ホルスタインとラウエンブルクの代表として派遣された。この時ビューローはビスマルクの息子ヘルベルトと一緒に遊んだことがきっかけで、大の仲良しになった。13歳のとき、父親がメクレンブルク=シュヴェリーン大公国の首席公使となったため、一家はノイシュトレーリッツに移り、ベルンハルトはフランクフルトのギムナジウムを経て、ローザンヌ大学ライプツィヒ大学ベルリン大学に入学した。

普仏戦争に志願し、ユサール連隊の伍長となる。後に彼は1870年12月アミアン近郊で戦闘に参加した際サーベルフランスの狙撃兵に突撃し、殺害したことを語っている。その後中尉に昇進し、戦後も軍に残らないかと誘われたが辞退した。1872年グライフスヴァルトで法学を修めた。その後、プロイセン市民局を経て、外交官になった。
外交官

普仏戦争後に官界に入り、外務省に入省する。1876年駐在フランス大使館勤務となりパリに赴任する。1878年ベルリン会議では書記官として出席する。1880年、二等書記官に昇進する。1884年ロンドンへの赴任を希望していたが、ロシア大使館一等書記官としてサンクトペテルブルクに赴任した。赴任の途中、ビスマルク一家のいるバルチノに2、3日滞在している。ビスマルクは、イギリスよりもロシアとの関係を重視していたためビューローをロシア大使に赴任させたという。代理公使待遇となったが、1887年に将来的にドイツ人と武力対立を引き起こすことを懸念して、ドイツ帝国領内からのポーランド人追放を提唱している。1888年ルーマニア王国公使、1893年イタリア王国公使を経て、1897年にアドルフ・フォン・ビーベルシュタイン(ドイツ語版)の引退をうけてホーエンローエ・シリングスフュルスト内閣の外相に就任する。

外相としてのビューローは、とりわけ皇帝ヴィルヘルム2世の意志を酌み、いわゆる「世界政策」としての植民地拡大政策で大きな役割を果たした。


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