ベルリン封鎖
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西ベルリンのテンペルホーフ空港に物資を空輸してきたC-54輸送機を見上げるベルリン市民

ベルリン封鎖(ベルリンふうさ、ドイツ語: Berlin-Blockade)は、第二次世界大戦終結後の1948年6月、ソビエト連邦政府が、西ドイツ西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件である。冷戦初期を象徴する出来事である。
背景
分割統治連合国各国に分割占領されたドイツソ連占領地域内にある首都ベルリンは、別途4か国で分割占領された

1945年7月17日から8月2日まで、戦勝国は戦後ヨーロッパの構想をポツダム協定に基づいて、オーデル・ナイセ線の西側を4つに分割し、4か国で臨時統治することを決めた。その4カ国とは、アメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連であった。これらの支配地域は都市の場所ではなく、戦勝国の軍の現在位置によって、大まかに決められた[1]。連合国統治評議委員会はベルリンについても、同様に4つに分割されることになり、160 平方キロメートルがソ連統治下に収まった。アメリカ、イギリス、フランスは都市の西側を統治下においた[1]

東側はソ連が共産党(KPD)と社会民主党(SPD)を統合し、ドイツ社会主義統一党(SED)を結成させ、SEDはマルクス・レーニン主義であって、ソ連の傀儡ではないと主張した[2]。SEDの指導者たちは反ファシスト且つ民主主義政権、議会制民主主義の確立を要望していたものの、ソ連軍政はその他全ての政治活動を抑圧した[3]。また、ドイツの工場、設備、技術者、経営階層や、熟練工員はソ連へと接収された[4]

1945年6月の会合で、スターリンはドイツの共産主義の指導者たちに、支配地域内のイギリスを徐々に弱体化させていき、アメリカは1年?2年以内には撤収し、影響力が無くなるだろうと語った。これによりソ連による共産主義支配が進み[5]、スターリンらは1946年初めに、ブルガリアとユーゴスラヴィアの代表団を訪れ、ドイツはソ連側に置かなければならないと語った[5]

ベルリン封鎖に至った要因としては、ベルリンへと至る道路や鉄道について、公式協定が無かったことがあげられる。戦争終了時点で、西側指導者はソ連の良識に任せてしまっていた[6]。その時点では、西側はソ連が列車を1日に1線路10便に制限したのは一時的なものだろうと考えていたが、後に、ソ連側は輸送路の拡張には拒絶の意を示した[7]

ソ連はベルリンへの空路はハンブルクビュッケブルク、そしてフランクフルトのみに限定していた[7]。1946年、ソ連軍は農作物の配送をストップさせ、アメリカ軍司令官ルシウス・D・クレイは西ドイツからソ連への解体した工業製品の輸送を止めることで応酬した。ソ連はこの措置に対して、アメリカの政策に反対するキャンペーンを行ない、占領下の行政活動を妨げる措置をとった。

1948年にベルリン封鎖が始まるまで、トルーマンは1949年に予定していた西ドイツ政府の設立後も、アメリカ軍を西ベルリンに駐留させるべきか決めかねていた[8]
1946年の選挙とベルリン

ベルリンは間もなく、アメリカとソ連のヨーロッパ再興の思惑が交錯する中心地点となった。ソ連の外務大臣、ヴャチェスラフ・モロトフはこう記している。「ベルリンで起きることは、ドイツに影響する。ドイツで起きることはベルリンに影響する」[9]。ベルリンは戦争によりかなりの損害を受けていた。戦争前は430万の人口を誇っていたが、戦後は280万に減っていた。

1945年から1946年にかけて、ソ連領内のドイツ人は強制移住や、政治的抑圧、厳寒を耐え忍び、ソ連に対して、敵意を感じていた[5]。1946年の州議会選挙(ドイツ語版)・大ベルリン(東西両地区)の市議会選挙(ドイツ語版)の結果は、特にソ連支配下のベルリンにおいては反共産主義の抗議を表した投票結果となった[5]。ベルリン市民は非共産主義者に投票していた[注釈 1]
政治的地域分布
西ドイツ移行への動き

アメリカはドイツがソ連支配下に落ちてしまうのは避けられないだろうと見ており、アメリカ大使ウォルター・ベデル・スミスアイゼンハワーに対して「我々の要求事項をソ連の意に添うような妥協した条件で、ソ連からの合意を引き出した結果のドイツ統一は望んでもいないし受け入れない」といった。アメリカ側は極秘裏に西ヨーロッパの経済を再興するために、ドイツを取り込む必要があった[10]

ベネルクス三国の代表者は1948年前半に2度ロンドンで会合の場を持ち、そこでの決定によって、ソ連がどう出るかは別として、ドイツの今後について議論した[11][12]。結果的にはドイツ対外債務に関するロンドン協定はロンドン債務協定として知られるようになった。1953年のロンドン債務協定(英語版)に基づいて、ドイツの賠償金は50 %減の150億マルクに減らされ、支払期限は30年延長され、急速に再興するドイツ経済へのインパクトは軽微であった[13]

この会議の声明に対して、1948年1月下旬、ソ連はベルリンへと運行しているイギリスとアメリカの列車の乗客に対して身分証の提示を求めるために停車させるといったことを始めた[14]。1948年3月7日に、マーシャルプランの延長が決まり、西側諸国のドイツの経済統合が決定し、連邦政府の設立が合意された[11][12]

3月9日に、スターリンとその軍事アドバイザーが会議を行ない、会議のメモを1948年3月12日に、モロトフに送付、メモの内容はベルリンへの通行を規制することで、西側の政策をソ連の意に沿うようにするというものだった[15]。連合国軍評議会は1948年3月20日に最後の会議を行ない、ワシーリー・ソコロフスキーがロンドン会議の結果の共有を要求し、ロンドン会議で交渉にあたった者からは最終結果はまだであるということを聞き、ソコロフスキーは「この会議の継続に意味を見出せないので、閉会を宣言する」と言った[15]

ソ連代表団は立ち上がり、退場した。トルーマンは後に「ドイツの大部分に関しては、以前からそうだったが、4か国による統治が決定的に機能不全となってしまった。ベルリン市にとっては、とてつもない危機になってしまった」[16]と述べている。
4月危機と少量空輸

1948年3月25日、ソ連はアメリカ、イギリス、フランスの占領下にあるドイツとベルリンの軍隊と乗客の往来を制限する命令を発行した[14]。この新しい施策は4月1日に始まり、貨物はソ連側の許可なくして、ベルリンから運び出してはならないものだった。各々の列車とトラックはソ連当局のチェックを受けることになった[14]。4月2日には、クレイ将軍は全軍用列車の停止を命令し、駐屯部隊は飛行機で移動するよう命令を下し、これは『少量空輸』と呼ばれた[14]

ソ連は1948年4月10日、西側の軍用列車の往来の制限を緩和したものの、引き続き、75日間にわたって、一定周期で鉄道と道路網の妨害を続け、一方のアメリカは貨物輸送機で軍の派遣を続けた[17]


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