ベルリン・スポーツ宮殿
Berliner Sportpalast
施設情報
所在地ドイツ、ベルリン、シェーネベルク
ベルリン・スポーツ宮殿(ベルリン・スポーツきゅうでん、ドイツ語: Berliner Sportpalast)は、かつてドイツ・ベルリンに存在した多目的催事会場である。1万人以上を収容し、シェーネベルク地区(ドイツ語版)のポツダム通り(ドイツ語版)172番地(1936年以降の新住居番号)にあった。1910年に完成し、1973年11月13日に取り壊された。ベルリン・スポーツ宮殿の名は、現在も特に「スポーツ宮殿演説」で人々に知られている。これは1943年にナチス・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが国民に総力戦を呼びかけたものである。
「国際スポーツ宮殿および冬季自転車競技場有限会社 (Die Internationale Sportpalast- und Winter-Velodrom GmbH)」は1909年に土地を購入し、建築家ヘルマン・デルンブルク(ドイツ語版)に建築を依頼した。1910年11月の開業時に人々の耳目を集めたのは、当時としては世界最大のスケートリンクであった。アイスホッケーやスピードスケートといったスポーツ競技がベルリンで大観衆を集め、初めて興業的に大成功を収めるようになったのもスポーツ宮殿の貢献である。スポーツ宮殿のこけら落としは、作曲家リヒャルト・シュトラウス指揮のベートーヴェンの第九であった。文芸欄を賑わせたことだが、壇上に向かう途中で不運に見舞われることがよくあった。講演者が、氷面の中央に設けられた演壇へと延びる絨毯敷きの通路をはずれ、転倒してしまったのである。催事内容や座席配置に応じ最大1万人が収容可能で、長きにわたりベルリン最大の催事会場であった。
厳しい船出とその後のブームドイツ国大統領候補ヴィルヘルム・マルクス、SPDとDDPの共同選挙集会、1925年4月ボクシング試合でのマックス・シュメリング、1928年
当初は興行的な成功に恵まれず、開業わずか数か月で倒産の憂き目にあったが、後に後援者からの支援を受け危機を救われた。
快楽を追い求める「黄金の20年代」にあってスポーツ宮殿は、一大ブームを巻き起こした。それはボクシング試合である。特にハンス・ブライテンシュトレーター(ドイツ語版)(通称「金髪ハンス (Blonder Hans)」)、ザブリ・マヒール(ドイツ語版)(「悪虐トルコ人 (Schrecklicher Turke)」)、マックス・シュメリング(通称「マクセ (Maxe)」)が有名である。よく試合に足を運んだ著名人に、エンリコ・カルーソー、リヒャルト・タウバー、ハンス・アルバース、フリッツ・コルトナー、ベルトルト・ブレヒトがいた。
1923年には世界初の屋内馬術競技大会を開催した。屋内での馬術競技というスポーツ催事は、今日でもなお多くの人々の関心を引いている。馬術競技だけではなく、6頭立て馬車といった馬車競技も行われた[1]。
6日間レース第27回ベルリン6日間レースのスタート、1932年
この他の大催事として年1回開催される自転車競技催事、ベルリン6日間レースが挙げられる。1911年に始まり、今日もベルリンの伝統となっている。出場者にはピート・ファン・ケンペン(「空飛ぶオランダ人 (Fliegende Hollander)」)やハンス・カルーパ(Hans Kalupa, 数十年後もポツダム通り(ドイツ語版)で花屋を営んでいた)らがいた。こうした年に一度の自転車競技大会では、屋根裏の安い席(いわゆる「干し草屋根裏部屋 (Heuboden)」)に陣取る名物男(ドイツ語版)ラインホルト・ハービッシュ(ドイツ語版)(「ポンコツ (Krucke)」)の音頭に合わせ、観衆が一緒になってスポーツ宮殿ワルツ(ドイツ語版)に口笛を吹くのがベルリンの慣わしであった。名士らは邸宅や毛皮のコートといった賞品を提供し、地上階に設けた仕切り席で食事や酒の歓待を受けた。トラック内側の席は、立ち席のみであった。映画館としても利用され、1919年には世界最大の映画館として宣伝された。
政治スポーツ宮殿におけるナチ党の選挙集会、1930年
ヴァイマル共和政が始まると、スポーツ宮殿は主要政党の党大会会場に貸し出されることが増えていった。とくに有名な弁士には、のちにドイツ国首相となるハインリヒ・ブリューニング(中央党)、労働者の指導者エルンスト・テールマン(共産党)、のちの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス(ナチ党)がいた。ナチ党の支部(ベルリン・ブランデンブルク大管区)は1926年から1928年までスポーツ宮殿からそう遠くないポツダム通り97番地にあった。事務所は1階にあり、「アヘン窟」と呼ばれていた。
ベルリンでのナチ党禁止が1928年9月に解けると、スポーツ宮殿で行われるナチ党集会はその数を増していった。
アドルフ・ヒトラーは数年にわたり様々な州で演説禁止処分が下されていたが、プロイセン自由州がこれを解除した後の1928年11月16日にベルリン・スポーツ宮殿で演説した[2]。
ゲッベルスは早くからスポーツ宮殿にプロパガンダ面で潜在力があることを見抜き、この場を「我々の会場 (unsere Tribune)」と評した。しかしナチ党の政敵もまたスポーツ宮殿を使用していた。「政権掌握」の後もドイツ共産党は1933年2月23日に翌月の国会選挙を控え大集会を開催し、主弁士は後に東ドイツの初代大統領となるヴィルヘルム・ピークであった[3]。この選挙で勝利を収めたヒトラー政権は野党を禁止し、こうしてスポーツ宮殿を独占できるようになった。またスポーツ催事にはほとんど使用されなくなった。
1933年11月13日にナチスに迎合するキリスト教団体、「ドイツ・キリスト者(ドイツ語版)」の大ベルリン代表であったラインホルト・クラウゼ(ドイツ語版)が約2万人の聴衆を前に演説した。そこではドイツ的キリスト教なる、露骨に反セム的、復興異教的イデオロギーを喧伝し、ドイツ的キリスト教はユダヤ的根部を取り除くべきと主張した。演説はラジオで中継されたが、その後数週間にわたってドイツ・キリスト者からは脱会者が相次ぐ結果となった。
戦争ヨーゼフ・ゲッベルスによる「スポーツ宮殿演説」、1943年
政治関連の最重要な出来事に、1943年2月18日にゲッベルスが行った「スポーツ宮殿演説」がある。スターリングラードでの敗北を経た国民に「総力戦」を誓って支持するよう求めるものであった。