ベルシステム
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ベルシステム24」あるいは「ベルシステム (企業)」とは異なります。
ベルシステムのロゴマーク。1969年にアメリカのグラフィックデザイナー、ソール・バスがデザインした。

ベルシステム(英語: Bell System)またはベル系(ベルけい)[1]とは、AT&T(およびその前身のベル電話会社)が北米の電話サービス業界を支配していた企業構造のことであり、1877年に設立されてから1980年代初頭に反トラスト法により解体されるまでの約100年間、その状態が継続していた。このシステムが、アメリカ合衆国カナダのほとんどの地域で、電気通信用の製品からサービスまでを垂直的に独占していたため、俗にMa Bell(マーベル、Mother Bellの略)と呼ばれていた。1980年代初頭のベルシステム解体時には、1500億ドル(2019年の価値換算で3700億ドル相当)の資産を持ち、100万人以上の従業員を抱えていた。

1910年代から、アメリカの反トラスト規制当局は、ベルシステムが独占力を乱用していることを監視し、非難しており、数十年の間に何度も法的措置をとっていた。1974年にアメリカ合衆国司法省の反トラスト部門がシャーマン法違反でAT&Tに対する訴訟を起こした。1982年、AT&Tは勝訴の見込みがないことを見越して、司法省が命じた同意判決(英語版)に同意した。これは、AT&Tの地域通信部門を7つの地域ベル電話会社(通称「ベビーベル」)に分割することを命じるものだった。1984年1月1日に分割が実行され、巨大通信コングロマリットは消滅した。ベビーベル各社は、長距離通信部門のみとなったAT&Tとは独立した企業となり、そのうちのいくつかは現在では非常に大きな企業となっている。2005年、ベビーベルの1社であるSBCコミュニケーションズ(旧サウスウェスタン・ベル)は、AT&Tを買収してAT&T Inc.に改称した。
歴史1889年から1900年まで使用していたロゴ詳細は「AT&Tの歴史(英語版)」を参照
設立

1876年3月7日、アレクサンダー・グラハム・ベルは電話機のアメリカにおける特許を取得した。翌1877年、ベルの名を冠したベル電話会社(Bell Telephone Company)が設立され[2][3][4]コネチカット州ニューヘイブンに最初の電話局を開設した。それから数年のうちに、アメリカ本土の主要都市に電話局が設立された。「ベルシステム」という名称は、ベル電話会社が所有する全ての電話会社を指す言葉である。これらの会社は、社内では関連会社(associated companies)、地域持株会社(regional holding companies)と呼ばれ、後にはベル運営会社(Bell operating companies, BOCs)と呼ばれるようになった。1885年、ベル電話会社は、ニューヨークとシカゴ、さらにその先を結ぶ長距離電話を提供するためにアメリカ電信電話会社(American Telephone & Telegraph Company, AT&T)を設立した。

1899年、AT&Tは、親会社であるベル電話会社の資産を買収した[2]。AT&Tが親会社を買収して逆にその子会社とし、AT&Tがベルシステムのトップとなったのは、ベル電話会社の本社があったボストンよりもニューヨークの方が規制や税制が緩かったからである。その後、ベルシステムとその呼び名である「マーベル」は、AT&Tの全ての会社を総称する言葉となった。

ベルシステムには以下の4つの主要部門があった。

AT&Tロングラインズ (AT&T Long Lines) - 長距離電話サービスを提供し、地方都市を相互に接続する。

ウェスタン・エレクトリック (Western Electric Company) - 機器製造部門

ベル研究所 (Bell Labs) - 研究開発部門

ベル運営会社 - 市内電話サービスを提供する。

キングスベリー契約ユニバーサルサービスのスローガンを掲げたベルシステムの広告(1912年)

1894年にベルのオリジナルの特許が切れると、電話市場は開放されて6千もの新しい電話会社が設立され、ベル電話会社は深刻な経営悪化に陥った[2][4]。1907年4月30日、AT&T初代社長のセオドア・ニュートン・ヴェイルが社長に復帰した[2][4]。ヴェイルは、全米が単一の電話システムで統一されている方が良いと考え、AT&TはOne Policy, One System, Universal Serviceというスローガンを掲げた[2][5]。これは、その後70年間にわたる会社の理念となった[4]。ヴェイルの下で、AT&Tはウエスタンユニオン電信をはじめとする多くの小規模な電話会社の買収を開始した[2][4]

1913年、AT&T傘下のベルシステムが全米の電話システムを独占するようになったことにより、連邦政府の反トラスト規制当局から目をつけられることになった。政府からの訴訟を避けたいAT&Tは、連邦政府との間で「キングスベリー契約(英語版)」と呼ばれる合意を結んだ[2][5]。AT&Tは、ウエスタンユニオンを売却すること、競合他社が自社システムと相互接続することを認めること、州際通商委員会の許可なしに他の独立企業を買収しないことを約束し[2][4][6]、その代わりにベルシステムの解散や国有化を免れた。1934年以降は、連邦通信委員会(FCC)がAT&Tの規制を行うようになった。
全米規模の独占1921年から1969年まで使用していた、ベルシステム関連会社のロゴのテンプレート20世紀のほとんどの期間AT&Tの本社が置かれていた195 ブロードウェイ(英語版)1930年代から1940年代にベルシステムの電話帳に採用されていた『スピリット・オブ・コミュニケーション

右に掲げる鐘(ベル)のロゴマークは、1921年から1969年まで、AT&Tと地域事業会社の両方が、1つのベルシステムの商標の下で共同ブランドを確立するために使用されたものである。この商標のテンプレートの"name of associated company"の部分に、各社の名前が入る。

ベルシステムの電話機や関連機器は、AT&Tの完全子会社であるウェスタン・エレクトリックが製造していた。電話会社は収入の一定割合をベル研究所にライセンス料として支払っていた。

この垂直独占の結果、ベルシステムは1940年までにアメリカの電話サービスのほとんどを、市内・長距離サービスから電話機に至るまで、事実上保有していた。このため、ベル社は顧客がベル社製またはベル社が販売していない機器を、料金を支払わずにシステムに接続することを禁止することができた。例えば、顧客が地元のベル社がリースしていないスタイルの電話機を希望する場合、顧客はその機器を原価で購入し、電話会社に提出して再配線してもらい、サービス料とそれを使用するための月々のリース料を支払わなければならなかった。
ベルシステムの縮小と解体

1949年、司法省は、AT&Tとベルシステムの事業会社が電気通信分野でほぼ独占状態にあることを利用して、関連技術で不当な優位性を確立しようとしていると反トラスト法違反の訴訟を起こした。その結果、1956年に締結された同意協定により、AT&Tは全米の電話網の85%と特定の政府契約に限定され、またカナダカリブ海地域での権益を継続して保有することができなくなった。ベルシステムのカナダ事業には、ベル・カナダという地域事業会社と、ベルシステムの機器メーカーであるウエスタン・エレクトリックの製造子会社のノーザン・エレクトリックがあった。ウエスタン・エレクトリックは1956年にノーザン・エレクトリックを分割したが、AT&Tがベル・カナダを分割したのは1975年のことである。ベル・システムのカリブ海地域の事業会社はITT(当時はInternational Telephone & Telegraph Co.)に買収された。

同意判決では、ベル社は全ての特許をロイヤリティフリーにすることも求められた。これにより、特に電子機器やコンピュータの分野で、技術革新が大幅に進んだ[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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