ベルギー国立銀行
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ベルギー国立銀行
Nationale Bank van Belgie(オランダ語)
Banque nationale de Belgique(フランス語)
Belgische Nationalbank(ドイツ語)

本店ブリュッセル
設立1850年5月5日(根拠法の日付)
総裁ピエール・ウンシュ
ベルギー
継承欧州中央銀行 (1999年)1
ウェブサイトwww.nbb.be
1ベルギー国立銀行自体は存続しているが、中央銀行としての多くの機能は欧州中央銀行が継承した。

ベルギー国立銀行(ベルギーこくりつぎんこう、:Nationale Bank van Belgie :Banque nationale de Belgique :Belgische Nationalbank)はベルギー中央銀行欧州中央銀行制度に参加している。日銀のモデルとなり(松方正義#明治維新後)、ユーロ導入前は独自通貨ベルギー・フランを発行していた。

ベルギー総合会社は国立銀行と別の経済主体であるが、しかし国立銀行の設立時に通貨発行権を譲った歴史をもっており、現代へいたるまでの経営史も他行との関わりにおいて興味深いため、一節を割いて説明している。
国立銀行の歴史
コックリルとロスチャイルド「普仏戦争におけるベルギー」も参照

ベルギーがまだネーデルラント連合王国に属していた時代、1822年にソシエテ・ジェネラル・ド・ベルギーという総合商社が立ち上がった[注釈 1]。ここではベルギー総合会社(オランダ語版、英語版)と呼ぶ。ウィレム1世が発起人であり、彼とその家族が株式の大部分を保有した。この会社は旧教会領や工業会社のデベロッパーとして大掛かりな抵当貸付を営む一方、政府銀行家として国債を発行したり、中央銀行として発券したり貯蓄銀行の資金を預かったりした。

1835年、対抗馬となるベルギー銀行をチャールズという男がつくった。ベルギー銀行はジョン・コックリルと組んで[注釈 2]、ベルギー総合会社とロスチャイルドが1832年から計画してきたパリ=ブリュッセル鉄道の利権を奪った。1838年の金融危機に、ベルギー総合会社は250万フランの即時手形(2-3日以内)をベルギー銀行へ突きつけて、このライバルを潰そうとした。もっとも、1830-40年代にベルギー総合会社はしばしばロスチャイルド家と国債引受を共同した。1840-48年の間にベルギー総合会社は国王の持株を買収した。1848年革命でベルギー総合会社とベルギー銀行がともにデフォルトしてしまった。国家経済を立て直すべく、ベルギーは双方の銀行券を法定通貨として認めた。すなわち、1851年にベルギー国立銀行が両行の発券権能と国庫金出納を吸収して開業に至ったのである[注釈 3]。このときベルギー総合会社は国立銀行株を1万株取得した。

元法務大臣のフランソワ・ド・オシー卿が初代総裁となった。副総裁は元議員のLouis Deswert (1795-1864)[注釈 4]が務めた。理事には、銀行家のジョナサン・ラファエル・ビショフサイム[注釈 5]、元議員のEugene Previnaire、L. Doucet、J. Matthieu、そして F. Vander Elst が就任した。およそ20年間、理事会は異動がなかった。設立したばかりは優先すべき事項に追い立てられていたが、およそ片付くと支店を全国展開し割引事務所もつくった。1882年、財務大臣のシャルル・グロが世界展開を打診した。1900年にも、ヘント生まれの総理大臣ポール・ド・スメ(フランス語版、英語版)から同様の意見が提出された。後に国立銀行はそれら建議を破棄したが、大不況をすぎて1908年にベルギー領コンゴでの現金預け払いを営むようになった。[1]
ゼーラント兄弟から今日まで

政府からの要求がエスカレートしてゆき、第一次世界大戦までにベルギー国立銀行は10億ベルギーフランをこえる銀行券を発行していた。政府のラテン通貨同盟をめぐる交渉にも参加した。交渉過程では景気循環を計算に入れて為替レートを決めたり、参加国の金属準備・金為替両方の制度をつくったりした。また、一貫して口座振替制度を牽引してきた。[1][注釈 6]

戦中ドイツ帝国に占領されて、1918年11月まで後述のベルギー総合会社に発券を代行させた[1]

1926年10月25日の勅令で、金流出防止の観点から、業務範囲が定款における限定列挙で拘束された。その一つは、国債または他の政府・植民地の保証付き証券、そしてこれらと並ぶルクセンブルクの有価証券を担保として貸付ができるとしていた。[注釈 7]

1935年、ベルギー・ルクセンブルク通貨同盟により、ルクセンブルク・フランとベルギー・フランとの交換比率が改定された。その翌年、ベルギー国立銀行はルクセンブルクへ代理店を設置した。1939年、第二次世界大戦ナチス・ドイツが侵攻してくると、理事は国外へ逃亡してしまった。その間に占領軍がブラッセル発券銀行[注釈 8]を設立した。1940年7月、理事がマネーサプライをコントロールするために帰国を決めた。こうしてベルギーに二つの発券銀行が並び立ったのである。[1]

戦後は1993年3月22日の立法によるまで国立銀行の独立性が制限された。1988年12月23日の立法で、発券と目的については定款があってないような緩いものとなった。国立銀行は手形交換所と証券集中保管機関も展開するようになった。監査は1935年設立の銀行金融委員会にある一部局が行っている。[1][注釈 9][注釈 10]


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