ベル&ハウエル
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アメリカ国立公文書記録管理局が所蔵するズーマティック 8mm撮影機。リージェント 家庭用8mm映写機

ベル&ハウエル(英語: Bell & Howell)は、アメリカ合衆国映画用機材を製造する企業として、1907年、イリノイ州ホイーリングに設立された会社である。ベーヴェ・システック(ドイツ語版)が2003年に買収し、ベーヴェ・ベル&ハウエル(Bowe Bell & Howell)となるが、2011年にヴァーサ・キャピタル・マネジメントが同社を買収、社名を元に戻した。現在は、文書処理マイクロフィルム機器、スキャナ金融サービスを供給する企業である。同社の Bell & Howell の商標は、さまざまな電化製品メーカーにライセンスを供与している[1]

日本では、ベルハウエル、ベル・ハウエルなどの表記で知られる[2]
略歴1923年に発売されたフィルモ70の後継機、フィルモ75(1928年)。

1907年2月17日、設立

1909年、35mmフィルムの業務用撮影機スタンダード・シネマトグラフ2709を発表

1923年、16mmフィルム用撮影機フィルモ発売

1925年、35mmフィルム用撮影機アイモ発売

1934年、8mm撮影機を発表、フィルムカセットの導入

1935年、第7回アカデミー賞アカデミー科学技術賞受賞

1942年、イリノイ州リンカーンウッド(英語版)に本社移転

1946年、マイクロフィルム製造開始

1948年、スチルカメラのフォトン発売

1954年、第26回アカデミー賞アカデミー名誉賞受賞

1956年、オートロードEE(Autoload EE)発売

1961年、キヤノンとの提携開始、スチルカメラ、8mmカメラをてがける

1962年5月、第14回プライムタイム・エミー賞で冠番組『ベル&ハウエル クローズアップ』が各賞にノミネートされる。

1963年5月、第15回プライムタイム・エミー賞でも同様。

1963年11月22日、ケネディ大統領暗殺事件を撮影した414PD式8mm撮影機ズーマティックが注目される

1966年、ベル&ハウエル・スクール創立、デヴライ技術研究所(現在のデヴライ大学(英語版))の経営権獲得

1982年12月1日、Apple IIのベル&ハウエルモデル発売

2003年、買収されてベーヴェ・ベル&ハウエルに社名変更

2011年、買収されてベル&ハウエルに社名変更

概要
黎明期の映写機からセシル・B・デミル監督とベル&ハウエルの技師たち。1920年。

1907年2月17日、ベル&ハウエル・カンパニーは設立された。イリノイ州クック郡の記録簿には8日後に正式に登録された。同年同月19日の朝10時、最初の株主総会が法律家W・G・ストロングの事務所で開催された。最初の取締役会が、1年の任期で選任された。取締役会長にドナルド・ジョーゼフ・ベル、秘書役にアルバート・サマーズ・ハウエル、副会長にマーグリット・V・ベル(ドナルドの妻)といったメンバーであった。ベルとハウエルの2人は映写技師であった。同年、35mmフィルム映写機のロータリー・フレイマーを発表、フリッカーを軽減した。

1908年、35mmフィルムのパーフォレーションの穿孔機を発表、さらに翌1909年には35mmフィルムの業務用撮影機を発表、以降その生産をつづけた。この手回し撮影機スタンダード・シネマトグラフ2709は、初期のサイレント映画に使用されたが、非常に高額でチャーリー・チャップリンのほかは3つの映画会社しか所有できなかった[3]。1911年(明治44年)、映画の現像場向けの焼付け機材を発表する。

歴史上、同社はさまざまな異なるメディア技術を提供した。
小型の撮影機

1920年代からは、記録映画やニュース映画、アマチュア映画向けの小型映画用撮影機・映写機の開発を開始する。家庭用に成功を収めアマチュア映画のムーヴメントを生み出した16mm撮影機フィルモ(1923年末)、報道の分野で戦後のテレビ界でも活躍した35mmハンディカメラアイモ(1925年)、オートロードEE(Autoload EE, 1956年)といった撮影機を製造した。16mmフィルム用のサイレント、サウンドの両映写機や、16mmフィルム用の軍用ガンカメラN-6A型撮影機等である。

1926年10月4日、阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画の撮影所にカール・レムリが送り込んだ6台の撮影機は、いずれも同社の製品であった[4]。1928年からは、京都の大沢商会が同社の光学機械の輸入を開始、大澤善夫はやがて1933年、J.O.スタヂオ(現在の東宝の前身の一社)を設立するに至る。

1934年、同社は初めての軽量小型の8mm撮影機を発表、フィルムカセットを導入した[5]。以降、スタンダード8mmフィルム、1965年以降は、スーパー8mmフィルム向けの撮影機と映写機を製造した。

1935年、同社は第7回アカデミー賞において、「全自動音響および焼付け機材の開発」に対し、アカデミー科学技術賞が贈られた[6]キヤノンとの提携で生まれたデミ

1946年には、マイクロフィルムの製造を開始している。1948年に発売したスチルカメラ「フォトン」は短命に終わった。ほかにも、スライド映写機や、オーバーヘッドプロジェクタなどを手がけた。1949年から1964年まで、後の政治家チャールズ・パーシーが社長を務めた。パーシーの経営によって売上高は32倍増に飛躍し、ニューヨーク証券取引所で株式を公開するに至る。

1954年、同社は第26回アカデミー賞において、「映画産業の進歩における開拓者的、基本的功績」に対し、アカデミー名誉賞を受賞した[6]

1961年から1976年にかけて、日本の企業キヤノンと提携、スチル写真用のカメラを製品のラインナップに載せた。35mm一眼レフカメラは、キヤノンがベル&ハウエルのロゴをつけて製造したものである。キヤノン キヤノネットシリーズキヤノン デミシリーズ等である。ベル&ハウエルは、1970年代の初期には、映画用撮影機の生産をやめていた。

1962年および1963年の5月、同社が提供するABC(アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー)のドキュメンタリーテレビ映画の冠番組『ベル&ハウエル クローズアップ!』が、第14回および第15回プライムタイム・エミー賞で各賞にノミネートされる[7]

同年11月22日、ケネディ大統領暗殺事件を偶然撮影したダラス市民エイブラハム・ザプルーダーが使用したカメラが、同社の414PD式8mm撮影機ズーマティックであったため、同機は「ザプルーダー・カメラ」と呼ばれるようになる。「ザプルーダー・フィルム」も参照
多角経営アップルII ベル&ハウエルモデル。

ベル・メディア(英語版)傘下のカナダのテレビ局、CTVトロント(英語版)のキャスター、オースティン・デラニーは、1960年代から1970年代にかけて、カナダのベル&ハウエルの社長を務めた。1960年代にはコンソリデイテッド・エンジニアリング(英語版)を買収、のちに1970年代半ばにデュポンに売却した。

同社は、学校や企業向けのメディア機材の供給におけるリーディングカンパニーであった。


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