ベリー・ダンス
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ベリーダンス(Belly dance、あるいはbellydance)は中東およびその他のアラブ文化圏で発展したダンス・スタイルであり、これらを総称するために造語された呼称である。また、このダンスを踊る者はベリーダンサー(Bellydancer)と呼ばれる。
目次

1 歴史

2 形態

3 衣装

4 アラブ文化圏におけるベリーダンス

4.1 エジプトの様式

4.2 トルコの様式


5 西洋におけるベリーダンス

6 アメリカにおけるベリーダンス

6.1 アメリカン・トライバル・スタイル・ベリーダンス(ATS)


7 映画の中のベリーダンス

8 男性のベリーダンス

9 健康とベリーダンス

9.1 ベリーダンスと痩身


10 ベリーダンスの禁止令

11 ベリーダンスとポップ・カルチャー

12 脚注

13 関連項目

14 外部リンク

歴史 ジャン・レオン・ジェローム作。 19世紀以後の中近東の風物がヨーロッパで使用された。この絵も彼らのイメージする「官能と倦怠」の東方世界を描き出している。

ベリーダンスはイスラム時代以前のエジプトより、口承に基づき伝授され知られてきた。その起源は諸説存在するが、地中海世界中東アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。12世紀から13世紀にかけてのペルシア細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる。

中東以外の地域においては、18世紀から19世紀に掛けて勃興したロマン主義運動の高まりの中で、オリエンタリズムの芸術家達がオスマン帝国ハレムの生活を解釈して描いた絵画のなかに登場したことにより、一般的に知られるに至った。西洋やアメリカのベリーダンスで形成され続けている他文化混合的な流行は、その活動を通じて今なお進行中である。ベリーダンスは多彩な側面を持つダンスとして、モダン・ファッションや映画・テレビなどの発信するイメージ、ロックヒップホップの世界観、アンダーグラウンド・サブカルチャー、などの要素が渾然一体となった現代文化を吸収し続けている。
形態

使用されるほとんどの基本的なステップやテクニックは、体の部分ごとに分かれた円運動である。腰や肩を床と平行に別々に動かす。「ポップロック」は通常、ダンサーが「シミー」をしなかったときや腰や肩の動きを停止したとき、また柔軟性を生かした離れ業をする際のアクセントとして使用される。この動きによって腹筋を回転させバランスをとり、シフォンヴェールシルクヴェールなどのさまざまな小道具を支え、籠や剣、鞭のように見せている。
衣装

現在ベリーダンスの衣装としてまず想起されるものは、1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装である。アラビア風やラクス・シャルキー風が知られる。この衣装の特徴は上半身に密着したブラジャー風のトップスで、たいていビーズかコインがブラの周辺に飾られている。腰のベルトにもビーズかコインが飾り付けられている。おもに脚を覆うのはハーレム・パンツ、ストレートタイプのスカート、サーキュラー・スカート、パネル飾りがあしらわれたスカートである。

これが一般的であるのは、20世紀にヴォードヴィルやアメリカン・バーレスクのフーチークーチー、ハリウッドといったハーレム幻想を製品化した人たちが、中東風のドレスよりもこういった「幻想」を優先させたためである。エジプトにおけるナイトクラブのダンサーたちもまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏い、バラージ・ドレス(民族衣装)と称してラクス・シャルキー風のルーティーンを踊るようになった。このような装いはアメリカやヨーロッパにおいて、「キャンデラブラ・ダンス」と呼ばれる燭台を頭上に乗せて舞う民族舞踏を踊る際にも着られる。カイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために、身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装よりも、露出度の高いドレスを採用している。

1940年代のエジプト国王、ファールーク1世はロシアのバレエ講師・イヴァノワを娘のダンス教師に雇い、彼女は偉大なダンサーであるサーミア・ガマルにヴェールを舞わせる腕の動きを更に改良するような所作を最初に教えた。この結果、多くのエジプト・ダンサーが音楽の流れている間中ヴェールを使ったダンスを舞うようになった。アメリカにおいてはダンスを構成する一部として3.5ヤードから4ヤードの長さで作られたヴェールが着用されている。
アラブ文化圏におけるベリーダンス ラクス・シャルキーのダンサー、クリッシャンティ・サハール・シャルフ
(ハイデルベルクにて撮影)

アラブ文化圏ではラクス・シャルキー(Raqs Sharqi ??? ????、「東方の踊り」の意)、ラクス・バラディー(Raqs Baladi ??? ???? 「民族舞踏」の意)として知られ、トルコ語ではオルヤンタル・ダンス(Oryantal dans?、「東方舞踏」の意)として知られている。特に「ラクス・シャルキー」と言う言葉の起源はエジプトであるとされる。

ラクス・シャルキーは性別を問わず、通常はひとりで、観衆や個人的に坐っている人間を楽しませるために演じられる。ラクス・シャルキーは身体全体の筋肉運動を用いる。運動によって表現される「語彙」を基礎に置きつつもその表現を推し進め、音楽のリズムによってそれらの語彙を流動的に統合したダンスとされる。踊り手は「ラクス・シャルキー」において、音楽が想起させる感情を内面に湛えたり表現するのである。ここにおいて音楽はダンスの運動の「語彙」と統合されている。最も尊敬すべきラクス・シャルキーのダンサーはダンスを通じて感情を投影できたものである。たとえ、その動きの「語彙」がシンプルであってもである。音楽が観衆にもたらすリズムと感情を視覚的なレベルで伝える事が、ダンサーの目的であるとも言える。多くの人がラクス・シャルキーを官能に彩られた、成熟した女性の存在の力を表現するためのダンスとして見る。エジプト以外で、重要とされる様式を持つ国としてはトルコシリアレバノンが挙げられる。

今日、中東諸国のダンサー達はさまざまな世界博覧会にてこのダンスを披露し始めるようになった。ダンサーたちの驚くべき技術と演技が衆目に公開され支持を受けたことにより市民権を得始めている。
エジプトの様式

エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍はガワーズィー族との遭遇を果たした。ガワーズィー族はプロフェッショナルな芸人集団として、音楽家として生計を立てていた。売春を行う女性たちがいる一方で、ほとんどノマドの様な生活を送りつつも交易ルートを確立した街に居住していた。これに遭遇した当初、フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた「野蛮な」踊りを見せる彼らの出現を嫌悪した。しかし、うっとりさせられるような彼らのダンスに自然と惹き付けられていくのにそう時間はかからなかった。

エジプトにおいては、伝統的かつ主流の様式である3つのダンスがベリーダンスと深い関係を持つ。Baladi、Sha'abi、そしてSharqiの3つである。

エジプトスタイルのベリーダンスは、サーミア・ガマールやターヒヤ・カリオカ、ナーイマ・アーケフといった伝説的なダンサーたちが創り上げた基礎に基づくものであり、他のダンサー達はエジプト映画産業の黄金時代と褒め称えている。彼女たちの創り上げた基礎を部分的に継承した後発のダンサーとしてはソハイル・ザーキー、 フィフィ・アブドゥ、ナーグア・ファド、ルーシーとダイナが挙げられる。彼女達はみなエジプトでは人気のあるダンサーたちであり、40歳以上である。この流派においては、若い踊り手はダンスを触媒にして何かを伝えるにはあまりにも乏しい人生経験しか有していないと考えている向きもある。1960年代から80年代にかけて活躍した彼女たちは現在も高い人気を誇り、先達とほとんど変わらない名声と影響力を得ている。
トルコの様式

ターキッシュ・ベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていたが、今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。トルコの有名なベリーダンサーとしてはテュレイ・カラカやビルグル・ベライが挙げられる。トルコ人ダンサーは、エネルギッシュで強壮な、体操的ですらあるスタイルと、近年では、ジルと呼ばれるフィンガーシンバルの扱いに精通したダンサーとして知られ、ジルを上手く扱えないダンサーは熟練のダンサーではないともいわれる。


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