ベリー・ゴーディー・Jr.
Berry Gordy, Jr.
ベリー・ゴーディー(2010年12月)
基本情報
生誕(1929-11-28) 1929年11月28日(88歳)
出身地ミシガン州デトロイト
ジャンルロック、ソウル、ポップ
職業レコード会社役員
ベリー・ゴーディー・ジュニア(Berry Gordy, Jr.[1]、1929年11月28日 - )は、モータウン・レコードやその関連レーベルの創業者として知られる、アメリカ合衆国の音楽プロデューサー、実業家。
マイケル・ジャクソンやスティービー・ワンダーなど多くの大物アーティストを発掘した。
目次
1 生い立ち
2 モータウン・レコード
3 ロサンゼルスへの移転
4 受賞歴
5 モータウン所属アーティストについての発言
6 ミュージカル『モータウン』
7 私生活
8 ポピュラー文化の中で
9 出典・脚注
10 外部リンク
ベリー・ゴーディー・ジュニアは、ミシガン州デトロイトで、8人兄弟の7番目の子供として黒人中流家庭に生まれた(Gordy family
生い立ち
父ベリー・ゴーディー2世がデトロイトに引き寄せられたのは、拡大を続けていた自動車産業が数多くの雇用機会を黒人にも提供していたためであった[1]。
ベリー・ゴーディー・ジュニアの兄姉たちは皆、デトロイトで立派な黒人市民となっていた。しかし、ゴーディーは第11学年で高校を中退し、一攫千金を夢見てプロボクサーになった。やがて、1950年に朝鮮戦争のため陸軍に徴兵されるまで、ゴーディーはプロとしてボクシングを続けた。
韓国から1953年に帰国したゴーディーは、テルマ・コールマン(Thelma Coleman)と結婚した。ゴーディーは、音楽への関心を深め、曲を書いたり、もっぱらジャズのレコードを扱う the 3-D Record Mart というレコード店を始めたりした。しかし、店の経営はうまく行かず、ゴーディーはリンカーン・マーキュリー( Lincoln-Mercury)の工場で働けないかと職探しをはじめたが、家族のコネをたどってフレーム・ショー・バー(Flame Show Bar)というタレント・クラブのオーナー、アル・グリーン(Al Green)(同名の歌手とは別人)と知り合い、このクラブで歌手ジャッキー・ウィルソンと出会った。
1957年、ウィルソンは「Reet Petite」を録音したが、この曲はゴーディーが、姉グエン(Gwen Gordy)と、ライター兼プロデューサーのビリー・デイヴィス(Billy Davis)との共作であった。この曲は、そこそこのヒットとなったが、国外ではアメリカ国内以上にヒットし、特にイギリスではトップ10に入る大ヒットとなった(後に、1986年に再発された際には首位に立った)。その後2年間にウィルソンは、ゴーディーが共作者となった曲を4曲録音し、そのうち、「Lonely Teardrops」は R & B チャートの首位に立ち、ポップ・チャートでも7位まで上昇した。また、ゴーディーと姉グエンは、チェス・レコードのエタ・ジェイムズのために「All I Could Do Was Cry」を書いた。 ゴーディーは、自作曲のヒットで得た資金を、制作に再投資した。1957年、ゴーディーはミラクルズ
モータウン・レコード
1960年、ゴーディーは無名だったメリー・ウェルズ(Mary Wells)と契約したが、彼女はやがて、スモーキー・ロビンソン作の「You Beat Me to the Punch」、「Two Lovers」、「My Guy」といった曲で、モータウン・レーベルが育て上げた最初のスターとなった。タムラとモータウンは合併し、1960年4月14日に新たな会社モータウン・レコード・コーポレーションが成立した。
ゴーディーは、Nick and the Jaguars、Mike and The Modifiers、Chris Clark、Rare Earth、the Valadiers、Debbie Dean、Connie Hainesなど、何組かの白人アーティストたちとも契約したが、白人スターを育てることには成功しなかった。1959年、ゴーディーはトム・クレイ(Tom Clay)という白人DJで歌手のレコードをプロデュースし、Chant というデトロイトの小レーベルからレコードを出した。この Chant がゴーディー所有のレーベルだったのかどうかは、今となっては分からないが、このシングル盤は、レコード・コレクターの間では、ゴーディー関係のシングル盤で最も希少なものとされている。後にトム・クレイはロサンゼルスでもDJとして成功し、1970年代には、ゴーディー所有の MoWest レーベルで、再びレコーディングをしている。モータウンが最初に契約したイギリスの白人女性歌手は、キキ・ディー(Kiki Dee)であった。また、ゴーディーは、「ヒッツヴィルUSA」と名付けたデトロイトのウェスト・グランド大通りの本社に、白人従業員を数置く雇用していた。ゴーディーは、おもにアフリカ系アメリカ人のアーティストたちを売り込んでいたが、彼らのパブリック・イメージ、服装、マナー、踊りの振り付けなどを、例外なく注意深く管理していた。