ベネトン・フォーミュラ
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Benetton Formula活動拠点 オックスフォードシャー・ウィットニー(英語版)
(1986?1991)
西オックスフォードシャー・エンストン(英語版)
(1992?2001)
創設者ベネトン社
スタッフピーター・コリンズ
ロリー・バーン
フラビオ・ブリアトーレ
ロス・ブラウン
参戦年度1986年 - 2001年
出走回数260
コンストラクターズ
タイトル
1 (1995年)
ドライバーズタイトル2 (1994年, 1995年)
優勝回数27
通算獲得ポイント851.5
表彰台(3位以内)回数102
ポールポジション15
ファステストラップ36
F1デビュー戦1986年ブラジルGP
初勝利1986年メキシコGP
最終勝利1997年ドイツGP
最終戦2001年日本GP
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ベネトン・フォーミュラ (Benetton Formula Ltd) は、1986年から2001年にかけてF1に参戦していたコンストラクター。1995年にコンストラクターズチャンピオン獲得。長きに渡って4強の一角を占め、1980年代後半から1990年代のF1を代表するチームとなった。
歴史
F1への参戦?トップチームへ
1986年B186(1986年)

それまでもティレルアルファロメオのメインスポンサーを務めるなど、F1に関心を持っていたベネトン社が、トールマン・チームを買収。「ベネトン・フォーミュラ」として1986年開幕戦より参戦。現場を仕切るチームマネージャーは元チーム・ロータスウィリアムズF1で経験を持つピーター・コリンズが就任した。ベネトンはF1参戦初年度からテオ・ファビによりポールポジションを2回獲得し、ゲルハルト・ベルガーはタイヤ無交換作戦を決めメキシコGPで初優勝を飾った。チームに初優勝をもたらしたベルガーは最終戦を前にフェラーリへの移籍が決まった。
1987年

エンジンをBMWターボからフォードTEC V6ターボに変更。これは前年にハース・ローラチームに搭載されていたものを改良したエンジンである (実質的な開発はコスワースが担当)。ベルガーが去った空席には、アロウズからティエリー・ブーツェンを迎えた。この年はファビがファステストラップと3位を1回、ブーツェンが3位を1回記録し時に速さを見せたが、シーズン後半にファビとブーツェンの折り合いが悪くなり、ファビがF1シートを失うことが確定していた最終戦オーストラリアGPでは、ブレーキトラブルで周回遅れとなっていたファビが、上位を狙い8位走行中のブーツェンを執拗にブロックしブーツェンは3度コースオフ、4位(※後日2位のセナが車体規格違反で失格となり3位に繰り上がり)でポイントゲットしたレース後にブーツェンがその件でファビに抗議に行くと、「オマエはまだポールポジションも獲ってないくせに、3回PP獲ってから文句を言え(ファビはこれまでに3回PP獲得、ブーツェンはこの時点でまたPP獲得歴なしだった)」と口論するなど関係が修復不可能になっていた[1]

前年からはチーム完走率が41パーセントから50パーセントと向上し、コンストラクター順位もひとつ上がって5位となった。
1988年B188(1988年)

アメリカINDYシリーズに転向したテオ・ファビに代わり、ミナルディからアレッサンドロ・ナニーニが加入した。翌年からのレギュレーション変更が決定していた3.5リッター自然吸気エンジンへの一本化を見越し、コスワースDFRエンジンを使用した。これはDFVをルーツとするエンジンで、1988年はコスワースのワークスエンジンとしてベネトンだけに供給された。このエンジンには当初、ヤマハの「5バルブヘッド」の導入が予定されていたが、テストの段階で信頼性不足と判断され、実戦には採用されなかった。

DFRを搭載したB188は、マクラーレンホンダフェラーリなどのターボエンジン勢に迫る速さを見せ、過去最高成績となるコンストラクターズ・ランキング3位を獲得。自然吸気エンジンを使用したチームでは最上位となり、ブーツェンはドライバーズランキング4位を獲得、ナニーニもF1初表彰台を獲得するなど速さを見せ健闘した。

この年の最終戦、ベネトン社のアメリカ市場での店舗数拡大に功績を残していたフラビオ・ブリアトーレがコマーシャル・ディレクターとしてベネトン・フォーミュラに加わった。
1989年

前年の活躍が評価されたブーツェンがウィリアムズへと移籍。ピーター・コリンズの後押しにより、F3000で負った両足の重傷のため復帰時期が未知数だった新人ジョニー・ハーバートが加入してナニーニとコンビを組んだ。開幕戦で優勝争いを演じるなどトップグループの仲間入りを果たすかと思われたが、フォードのレース部門統括者であるミヒャエル・クラネフスとコリンズの意見の対立が深まり、ピット内で口論し罵り合うなど、これまで明るくアットホームなチームと言われていたチームの雰囲気はひどく悪化した[2]。加えて、ハーバートは足の傷が回復途上であり、ハードブレーキングの多いコースであるカナダGPで予選不通過に終わったため終了後、エマニュエル・ピロと交代させられた。このドライバー交代はコリンズのチーム方針に不満だったクラネフス主導で行われた人事であり[注釈 1]、コリンズはハーバートにベネトンのレギュラーシートを与えた責任を取るべきだとするクラネフスと、ハーバートが回復すれば必ず戦力になると主張するコリンズとの対立はより深まってしまった。メディア上で去就が取り沙汰されるようになったコリンズには数チームから移籍の打診もあり、7月に同業のピーター・ウォーが辞職していたロータスへの近い将来の復帰を望み、ベネトン・フォーミュラを辞職して発足初年度から3年半指揮してきたチームを去った[3]。ハーバートはジャン・アレジがF3000出場で欠席した場合のティレルに貸し出された[4]。コリンズの後任となるマネージングディレクターには前年終盤チームの広報部門に送り込まれていたフラビオ・ブリアトーレをベネトン社が推挙し、マネージング・ディレクターに昇格となった。

同年用のB189は本来第4戦から実戦投入される予定だったが[5]、搭載する新型フォードHBエンジンのクランク・シャフトに重大な欠陥が発見されたため投入が遅れ[6]、第7戦のフランスGPでエースドライバーのナニーニに、第8戦のイギリスGPから2台ともB189が投入された。ナニーニは第15戦日本GPで、アイルトン・セナアラン・プロストの同士討ちの間隙を縫ってF1初優勝を記録。続く最終戦オーストラリアGPでも2位に入るなど、同年ベネトンが獲得した選手権ポイントはほとんどがナニーニによるものだった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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