Benetton Formula活動拠点 オックスフォードシャー・ウィットニー
(英語版)ベネトン・フォーミュラ (Benetton Formula Ltd) は、1986年から2001年にかけてF1に参戦していたコンストラクター。1995年にコンストラクターズチャンピオン獲得。長きに渡って4強の一角を占め、1980年代後半から1990年代のF1を代表するチームとなった。
歴史
F1への参戦?トップチームへ
1986年B186(1986年)
それまでもティレルやアルファロメオのメインスポンサーを務めるなど、F1に関心を持っていたベネトン社が、トールマン・チームを買収。「ベネトン・フォーミュラ」として1986年開幕戦より参戦。現場を仕切るチームマネージャーは元チーム・ロータス、ウィリアムズF1で経験を持つピーター・コリンズが就任した。ベネトンはF1参戦初年度からテオ・ファビによりポールポジションを2回獲得し、ゲルハルト・ベルガーはタイヤ無交換作戦を決めメキシコGPで初優勝を飾った。チームに初優勝をもたらしたベルガーは最終戦を前にフェラーリへの移籍が決まった。 エンジンをBMWターボからフォードTEC V6ターボに変更。これは前年にハース・ローラチームに搭載されていたものを改良したエンジンである (実質的な開発はコスワースが担当)。ベルガーが去った空席には、アロウズからティエリー・ブーツェンを迎えた。この年はファビがファステストラップと3位を1回、ブーツェンが3位を1回記録し時に速さを見せたが、シーズン後半にファビとブーツェンの折り合いが悪くなり、ファビがF1シートを失うことが確定していた最終戦オーストラリアGPでは、ブレーキトラブルで周回遅れとなっていたファビが、上位を狙い8位走行中のブーツェンを執拗にブロックしブーツェンは3度コースオフ、4位(※後日2位のセナが車体規格違反で失格となり3位に繰り上がり)でポイントゲットしたレース後にブーツェンがその件でファビに抗議に行くと、「オマエはまだポールポジションも獲ってないくせに、3回PP獲ってから文句を言え(ファビはこれまでに3回PP獲得、ブーツェンはこの時点でまたPP獲得歴なしだった)」と口論するなど関係が修復不可能になっていた[1]。 前年からはチーム完走率が41パーセントから50パーセントと向上し、コンストラクター順位もひとつ上がって5位となった。 アメリカINDYシリーズに転向したテオ・ファビに代わり、ミナルディからアレッサンドロ・ナニーニが加入した。翌年からのレギュレーション変更が決定していた3.5リッター自然吸気エンジンへの一本化を見越し、コスワースのDFRエンジンを使用した。これはDFVをルーツとするエンジンで、1988年はコスワースのワークスエンジンとしてベネトンだけに供給された。このエンジンには当初、ヤマハの「5バルブヘッド」の導入が予定されていたが、テストの段階で信頼性不足と判断され、実戦には採用されなかった。 DFRを搭載したB188は、マクラーレン・ホンダやフェラーリなどのターボエンジン勢に迫る速さを見せ、過去最高成績となるコンストラクターズ・ランキング3位を獲得。自然吸気エンジンを使用したチームでは最上位となり、ブーツェンはドライバーズランキング4位を獲得、ナニーニもF1初表彰台を獲得するなど速さを見せ健闘した。 この年の最終戦、ベネトン社のアメリカ市場での店舗数拡大に功績を残していたフラビオ・ブリアトーレがコマーシャル・ディレクターとしてベネトン・フォーミュラに加わった。 前年の活躍が評価されたブーツェンがウィリアムズへと移籍。ピーター・コリンズの後押しにより、F3000で負った両足の重傷のため復帰時期が未知数だった新人ジョニー・ハーバートが加入してナニーニとコンビを組んだ。開幕戦で優勝争いを演じるなどトップグループの仲間入りを果たすかと思われたが、フォードのレース部門統括者であるミヒャエル・クラネフス 同年用のB189は本来第4戦から実戦投入される予定だったが[5]、搭載する新型フォードHBエンジンのクランク・シャフトに重大な欠陥が発見されたため投入が遅れ[6]、第7戦のフランスGPでエースドライバーのナニーニに、第8戦のイギリスGPから2台ともB189が投入された。ナニーニは第15戦日本GPで、アイルトン・セナとアラン・プロストの同士討ちの間隙を縫ってF1初優勝を記録。続く最終戦オーストラリアGPでも2位に入るなど、同年ベネトンが獲得した選手権ポイントはほとんどがナニーニによるものだった。
1987年
1988年B188(1988年)
1989年