ベネデット・マリーア・マウリツィオ・ディ・サヴォイア(Benedetto Maria Maurizio di Savoia, 1741年6月21日 ヴェナリーア宮殿(英語版)[1] - 1808年1月4日 ローマ)は、ピエモンテ=サルデーニャの王族・軍人[2]。シャブレー(キアブレーゼ)公爵。 サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世とその3番目の妻エリザベート・テレーズ・ド・ロレーヌの間の第3子・次男。両親は従兄妹同士だった。父にとっては6番目の息子で末子。洗礼名は時の教皇ベネディクトゥス14世の教皇名に因む[1]。生後間もなく母を亡くし、同母兄姉2人も夭折した。誕生と同時にシャブレー公爵の称号を授与された。 トスカーナの国主でもある神聖ローマ皇帝フランツ1世は母方伯父であり、皇帝は自分の娘マリア・クリスティーナを甥のベネデットに嫁がせようとしたが、クリスティーナがアルベルト・フォン・ザクセンとの恋愛結婚に走ったため、実現しなかった。 1753年、父王は12歳のベネデットのために、トリノ王宮
生涯
1774年の父王の死後、異母兄ヴィットーリオ・アメデーオ3世が王位を継いだ。翌1775年3月19日、ベネデットはトリノ王宮で、兄王の第4王女マリーア・アンナと結婚したが、間に子は生まれなかった[2]。1796年6月19日、ヴィットーリオ・アメデーオ3世よりイヴレーア侯爵領を授与された[2]。
優秀な軍事指導者であり[5]、第一次対仏大同盟戦争ではサルデーニャ軍を率いてフランスのイタリア方面軍と戦い、ロアーノの戦い(英語版)などで指揮を執った。亡命地のローマで死去し、同市内サン・ニコラ・デイ・チェザリーニ教会(イタリア語版)に埋葬されたが、後にトリノのスペルガ大聖堂(英語版)に改葬された[2]。 ウィキメディア・コモンズには、ベネデット・ディ・サヴォイア
引用・脚注^ a b Reale Accademia di Medicine. (1869). https://books.google.com/books?id=7Z4EAAAAQAAJ&pg=PA155 2010年8月26日閲覧。
^ a b c d “ ⇒Savoia”. 2010年8月26日閲覧。
^ Alberto Virgilio, Napoleon Turin, Turin, rep.1989, ed. Viglongo
^ a b “Storia di Aglie”. 2010年6月22日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2010年8月26日閲覧。
^ Artemont. Louis Leopold d', A Sister of Louis XVI; Marie-Clotilde de france, queen of Sardinia (1759-1802), London, London, 1911, pg.86
外部リンク