ベネディクト16世
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ベネディクト16世
第265代ローマ教皇

教皇就任2005年4月19日
教皇離任2013年2月28日
先代ヨハネ・パウロ2世
次代フランシスコ
司祭叙階1951年6月29日
司教叙階1977年3月24日(ミュンヘンフライジング大司教
その他1977年:枢機卿
1981年:教皇庁教理省長官
1993年:司教枢機卿
1998年:次席枢機卿
2002年11月30日:首席枢機卿
2013年2月28日:名誉教皇
個人情報
出生 (1927-04-16) 1927年4月16日
ドイツ国バイエルン州
アルトエッティング郡マルクトル・アム・イン
死去2022年12月31日 (95歳没)
バチカン、マーテル・エクレジエ修道院(英語版)
埋葬地サン・ピエトロ大聖堂
原国籍 ドイツ
親父親 ヨーゼフ
母親 マリア
署名
紋章
その他のベネディクト
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ベネディクト16世(ベネディクト16せい、ラテン語: Benedictus XVI、出生名: Joseph Aloisius Ratzinger、1927年4月16日 - 2022年12月31日)は、2005年4月19日から2013年2月28日に辞任するまで、カトリック教会最高位の教皇であり、バチカン市国の君主であった。2005年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去に伴う教皇コンクラーヴェで、ベネディクトが教皇に選出された。退任後は「名誉教皇」の称号で呼ばれた[1][2]

1951年、故郷のバイエルンで司祭に叙階されたヨーゼフ・ラッツィンガーは学問の道に進み、1950年代後半には神学者として高く評価されるようになった。1958年、31歳のときに正教授に任命された。その後、ドイツの複数の大学で神学教授を務めた後、ミュンヘンとフライジングの大司教に任命され、1977年には教皇パウロ6世によって、司牧経験の少ない人物としては異例の枢機卿に叙任された。1981年、ローマ教皇庁の最も重要な部局のひとつである教理研究所の所長に任命された。2002年から教皇に選出されるまで、首席枢機卿も務めた。教皇になる前は、ヨハネ・パウロ2世の最側近として「教会の優先順位や方向性を決める上で誰にも負けない影響力」を持ち、「四半世紀にわたって聖座の舞台で活躍した重要人物」であった[3]。教理研究所長に就任した1981年から帰天する2022年までの41年間ローマに在住した。

彼の著作は概して伝統的なカトリックの教義、価値観、典礼を擁護するものであり、多作であった[4]。もともとはリベラルな神学者だったが、1968年以降は保守的な見解を採用した[5]。ベネディクト16世は在位中、欧米の多くの国で進む世俗化に対抗するため、キリスト教の基本的価値観への回帰を提唱した。相対主義による客観的真理の否定、特に道徳的真理の否定を21世紀の中心的問題とみなした。そして、カトリック教会と神の贖罪の愛に対する理解の重要性を説いた[6]。ベネディクトはまた、トリエント・ミサを昇格させるなど、多くの伝統を復活させた[7]。カトリック教会と芸術の関係を強化し、ラテン語の使用を促進し[8]、伝統的な法衣を再導入したことから、「美学の法王」と呼ばれるようになった[9]。1980年代半ばから「教会における知的主体」と評されるようになった[10]

2013年2月11日、ベネディクトは高齢による「心身の体力不足」を理由に辞任を表明した。教皇の辞任は1415年のグレゴリウス12世以来で、教皇の自発的な辞任は1294年のケレスティヌス5世 以来であった。2013年3月13日にフランシスコに継承され、引退後はバチカン市国にある新装されたマーテル・エクレシアエ修道院に入居した。

ベネディクトは母国語のドイツ語のほか、フランス語イタリア語英語スペイン語にある程度の習熟度があった。また、ポルトガル語ラテン語聖書ヘブライ語聖書ギリシャ語にも通じていた[11][12][13]。また、フランス人文院など、社会科学系のアカデミーのメンバーでもあった。ピアノを弾き、モーツァルトバッハを好んだ[14]
教皇就任までの略歴
幼少期から司祭時代ヨーゼフ・ラッツィンガーの生家

ヨーゼフ・ラッツィンガーは1927年4月16日の聖土曜日の午前8時30分、父ヨーゼフと母マリアの次男としてドイツバイエルン州マルクトル・アム・インで生まれた。父親は警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計を立てていた。父ヨーゼフは1937年に退職したが、勃興してきたナチスに対して激しい嫌悪感を抱いていた。兄ゲオルク(ドイツ語版)は、後にヨーゼフと共に司祭職を志して司祭となり、ヨーゼフが教皇になった後も時折会っていたが、2020年7月1日に96歳で亡くなった[15][16]。姉マリアは生涯独身で自身の身の世話をしていたが、1991年に亡くなっている。

親族によれば、ヨーゼフは小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかし1939年第二次世界大戦が勃発し、ドイツが戦争一色になると14歳でヒトラーユーゲントへ加入する。当時のドイツでは、「ヒトラーユーゲント法」によって、10歳から18歳までの青少年はヒトラーユーゲントへ加入することが義務付けられていた。1943年には学友と共に対空防衛補助活動に動員され、1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化にともなって再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。1945年4月にドイツ降伏後のわずかな期間ウルムの捕虜収容所に収容されていたが、まもなく解放された。

戦後に兄ゲオルクと共にトラウンシュタイン聖ミカエル神学校で哲学と神学を学んだ後にミュンヘン大学でも学んだ。[17]その後、ヨーゼフは1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に『聖アウグスティヌスの教会論における神の民と神の家』という論文で神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文を著して大学教授資格を得て、フライジング哲学神学大学(ドイツ語版)に迎えられた。ヨーゼフは1959年から1963年まではボン大学で教え、ついでミュンヘン大学テュービンゲン大学で教鞭をとった。


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