ベネディクト・アーノルド
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ベネディクト・アーノルド
Benedict Arnold
ベネディクト・アーノルド(ジョン・トランブル画をH・B・ホールが版画にしたものの写し)hi
生誕1741年1月14日
コネチカット植民地、ノリッジ
死没1801年6月14日
イングランドロンドン
所属組織コネチカット民兵
大陸軍
イギリス陸軍
軍歴1756年-1759年(コネチカット民兵)
1775年-1780年(大陸軍)
1780年-1781年(イギリス陸軍)
最終階級准将(大陸軍)、准将(イギリス陸軍)
指揮フィラデルフィア軍事指揮官、ウェストポイント砦指揮官
戦闘フレンチ・インディアン戦争
アメリカ独立戦争
*タイコンデロガ砦奪取
*カナダ侵攻作戦
*バルカー島の戦い
*サラトガの戦い
署名
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ベネディクト・アーノルド5世(: Benedict Arnold V、1741年1月14日ユリウス暦では1740年1月3日)[1][2] - 1801年6月14日)は、アメリカ独立戦争での大陸軍将軍である。様々な戦功を挙げアメリカ合衆国の独立に大きく寄与しながらも、アメリカ側の将軍である時にニューヨークウェストポイント砦でイギリス軍へのその引渡しを画策したことで知られている。この謀略が未遂に終わった後はイギリス軍に仕えた。

アーノルドはその狡猾さと勇敢さで独立戦争の初期に頭角を現した。その功績としては1775年タイコンデロガ砦奪取、1776年シャンプレーン湖におけるバルカー島の戦いで敗北しながらも良く防ぎ敵の侵攻を遅らせた戦術、コネチカット植民地でのリッジフィールドの戦い(この後で少将に昇進した)、および戦争の転換点となった1777年サラトガの戦いが挙げられる。サラトガでは足を負傷して、その後数年間は戦歴を積むことができなくなった。

アーノルドはその成功にも拘らず、昇進では大陸会議に見送られ、その多くの功績は他の将官達に横取りされた[3]。多くの政敵から汚職で告発され、大陸会議がその証言を調査した結果、アーノルドは戦争遂行のために私財を費やしたために借金を背負った結果だったことが分かった。アーノルドはひどく憤懣が募り、アメリカがフランスと同盟を結んだことに反対していたので、1779年に味方を裏切る決心をした。1780年7月、ウェストポイント砦をイギリス軍に渡すためにそこの指揮官職を求めて認められた。しかし、アメリカ軍がアーノルドの策略を書いた書類を携行していたイギリス軍のジョン・アンドレ少佐を捕まえたために、アーノルドの策謀が露呈した。アーノルドはアンドレが捕まったことを知ると、ハドソン川を下ってイギリス海軍のスループ船HMSバルチュアに逃亡し、同じ日にウェストポイントを査察しアーノルドに会って食事を共にするために到着していたジョージ・ワシントン将軍の部隊に捕まるのを辛うじて免れた。

アーノルドはイギリス軍で准将に任官され、年金360ポンドと総額6,000ポンド以上の報奨金を得た[4]。その後はイギリス軍の1部隊を率いてバージニア植民地ブランフォードやコネチカット植民地ゴートンハイツで戦ったが、ヨークタウンの包囲戦で事実上の戦争は終わった。1782年冬、アーノルドは2人目の妻マーガレット・"ペギー"・シッペン・アーノルドと共にロンドンに渡った。イギリス国王ジョージ3世トーリー党からは歓待されたが、ホイッグ党からは疎外された。1787年、アーノルドはニューブランズウィックセントジョンで息子のリチャードやヘンリーと共に商売の道に入ったが、1791年に永住する為にロンドンに戻り、その10年後に死んだ。

アーノルドは味方を裏切ったために、アメリカ合衆国ではその名前が直ぐに裏切りの代名詞にされた[5]。その遺した功績に対立する面があることで、彼の栄誉を称えるために立てられた幾つかの記念碑を曖昧な性格にしている。
生い立ち

アーノルドは、1741年1月14日[1]、コネチカットのノリッジで父親ベネディクト・アーノルド3世(1683年-1761年)と母親ハンナ・ウォーターマン・キングの6人の子供のうち2番目の子供として生まれた。ベネディクトという名前はロードアイランド植民地の知事を務めた曾祖父と、幼くして逝った兄ベネディクト4世の名前に因んでいる[1]。彼と妹のハンナだけが成人し、他の兄弟は子供の時に黄熱病で夭折した[6]。母方の祖母は、少なくとも4人のアメリカ合衆国大統領ユリシーズ・S・グラントフランクリン・ルーズベルトジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュジョージ・ウォーカー・ブッシュ)の祖先にあたるジョン・ラスロップの子孫である[7]

アーノルドの父は成功した実業家であり、家庭はノリッジの社会で上流に上り詰めていた。アーノルドが10歳の時に、近くのカンタベリーにある私立学校に入学し、行く行くはイェール大学まで進学することを期待されていた。しかし、その2年後にアーノルドの兄弟達が死んだことで、父親は酒に溺れるようになったために家業が傾いていった可能性がある。アーノルドが14歳のときには私立学校に払う教育費が無くなった。父親がアルコール依存症と健康を害したことで、アーノルドを家業で鍛えることもできなかったが、アーノルドは母親の家系のつながりから、彼女の従兄弟でノリッジで薬局と雑貨交易を営んで成功していたダニエルとジョシュア・ラスロップの兄弟の所に奉公に出された[8]。ラスロップ兄弟の所での奉公は7年間続いた[9]
フレンチ・インディアン戦争

1755年に、アーノルドは鼓隊の音に魅力を感じてフランスに対抗して従軍する為に植民地の民兵隊に志願しようとしたが、母親が認めようとしなかった[10]1757年、16歳のときに民兵隊に入隊し、フランス領カナダからの侵略(フレンチ・インディアン戦争)に対し、オルバニージョージ湖に進軍した。フランスの侵略はウィリアム・ヘンリー砦の戦いで頂点を迎えた。ここでイギリス軍は、ルイ・ジョセフ子爵指揮下のフランス軍に屈辱的な大敗を喫した。イギリス軍の降伏に続いて、フランスの同盟インディアンはイギリス軍と植民地軍が提示した降伏条件を知って激怒した。イギリス軍は頭皮、武器などの戦利品を約束したが、何も実行されなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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