ベネズエラの歴史
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ベネズエラの歴史(ベネズエラのれきし)では、ベネズエラ・ボリバル共和国歴史について述べる。ベネズエラの位置
先コロンブス期アラワクの人々。1860年

クリストーバル・コロンの来航以前の現在のベネズエラに相当する地域には、カリブ人系のカラカス人、テケス人や、アラワク人といったインディヘナの諸民族が生活していた。ベネズエラのインディヘナ達は南米西部のインカ文明中央アメリカマヤ文明メキシコアステカ文明、現コロンビアのチブチャ系諸文明のような高度な文明は築かなかったが、マラカイボ湖に水上村落が確認されたように航海技術が発展し、この地やギアナから西インド諸島へ航海していった人々も多かった。また、西部のアンデス山脈地域のインディヘナは村落共同体を築いて道路を建設するなどの動きもあり、現コロンビアのムイスカ人とも交流があったと推測されている。
スペイン植民地時代「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 廃墟と化したヌエバ・カディス

1492年にクリストーバル・コロンアメリカ大陸を「発見」し、1498年にコロンはヨーロッパ人として初めて今日ベネズエラとなっている地域を訪れた。同年アロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とアメリゴ・ヴェスプッチもこの地を訪れ、ベネズエラの国名の由来の最も有力な説は、この時にヴェスプッチがマラカイボ湖のインディオ集落を小ヴェネツィアと呼んだことに起因するものである。その後多くの征服者がこの地を訪れ、1523年クマナに建設され、1526年にはベネスエラ全土がイスパニョーラ島サント・ドミンゴアウディエンシアに統括された。しかし、ベネズエラからエル・ドラード伝説から期待された黄金を産出しないことが分かるとスペイン王室から見捨てられ、ハプスブルク家カルロス1世神聖ローマ皇帝になるための資金を集めるために、この地をドイツヴェルザー家に貸し出すなど、ベネズエラのスペイン植民地としての待遇は決して良くはなかった。スペイン人に立ち向かったカシーケ(首長)、グアイカイプーロの像

その間インディヘナ達は征服者に激しく抵抗し、特にテケス人のグアイカイプーロは諸部族をまとめて戦いを挑んだ。1567年に征服者ディエゴ・デ・ロサーダはグアイカイプーロ軍の隙を突いてアンデス山中のグアイレ渓谷中心部にサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスを建設したが、それでもこの地の完全平定は17世紀以降にもつれこんだ。

ベネスエラ全体の完全平定後も開発の波は押し寄せなかった。1594年にはイギリス海賊の襲撃によりカラカスは壊滅し、1641年には大地震によって再び壊滅している。この地はサント・ドミンゴのアウディエンシアによって統括されていたが、カリブ海のイスパニョーラ島から大陸部が統治されるという状況には無理があったため、カラカスのカビルドには大きな自治権が認められた。1676年以降はカビルドの知事は総督不在の際に行政権を施行する権利を得ている。1717年以降、1739年には正式にサンタフェ・デ・ボゴタを中心としたヌエバ・グラナダ副王領に編入され、カラカスを中心にベネズエラの原型というべきまとまりができあがった。その後ボルボン朝の改革の中で、ラテンアメリカ各地の新副王領創設のブームに乗って1777年にベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)が成立し、1786年にはようやくカラカスに独自のアウディエンシアが誕生して司法権がサント・ドミンゴから独立した。こうしてベネズエラは一つの地域としてのアイデンティティを保つようになった。

このように貴金属を産しなかったこの地はラ・プラタ地域と並んでスペイン植民地の中でも開発が遅れた土地となったが、その分スペイン王室の監視は緩く、プランテーション農業が黒人奴隷の移入により発展した。当初発展したベネズエラの製品はタバコであり、ヨーロッパでの需要増大のために、密輸による輸出が進展した。18世紀後半にタバコ産業が衰退すると代わってカカオ栽培が発達し、ヌエバ・エスパーニャ副王領ベラクルス経由でスペインに輸出されるようになった。

スペインの没落による制海権喪失は、ベネズエラとスペインの貿易量を減少させ、代わりにフランス、オランダ、イギリスとの密貿易が横行するようになった。スペイン当局は密輸の阻止のために1728年バスク商人によってカラカス会社(ギプスコア会社)が設立させるとスペインとの貿易が拡大し、綿花や藍をも輸出するようになった。しかし、もはやスペインのみとの貿易に飽き足らなかったボリーバル家をはじめとする現地ブルジョワジーイギリスオランダフランスとの更なる貿易を望んだ。その代価としての富と共に自由主義思想が流入することになった。ベネズエラとアルゼンチンスペイン帝国内でも政治的には僻地だったためにスペイン当局の思想統制は弱く、密貿易による自由主義思想の流入には基本的には歯止めはかからなかった。そうして生まれた富裕層がルソーらのフランス自由主義知識人の影響を受けて、後のラテン・アメリカ独立運動において指導的な役割を果たすようになった。1800年にはカラカスの人口は約4万人に達していた。
解放戦争とシモン・ボリーバル「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照『カラカのミランダ』 (1896年)、アルトゥーロ・ミチェレナの描いた油絵ボリーバルの最も優秀な部下だったアントニオ・ホセ・デ・スクレ元帥。ボリビアの実質的な初代大統領となったが、暗殺された。ベネズエラ独立戦争(英語版)の天王山となったカラボボの戦い (1821年)(英語版)。

何回かの失敗に終わった蜂起の後、シモン・ボリーバルの指導の下で1821年にスペインからの独立を達成した。ベネズエラは現在のコロンビアパナマエクアドルとともに大コロンビアを形成したが、1830年に分離して独立国になった。

18世紀末からヨーロッパの政治情勢の不安定化を受けて、ベネズエラでも独立の気運が高まった。1795年にはフランス領サン=ドマングでの黒人反乱(ハイチ革命)の影響を受けた黒人暴動が勃発した。1797年にフランス革命戦争の一環としてベネスエラ総監領のトリニダード島がイギリスに占領され、1802年には正式に割譲されるとベネスエラにもヨーロッパの戦争が身近なものになってきた。1804年にはハイチ革命の影響を受けた有色人種暴動カスタの反乱が起きた。

1806年に元スペイン軍の軍人で、ヨーロッパ各界の著名人と親交があったフランシスコ・デ・ミランダがベネスエラ独立のためにアメリカ合衆国から200人の義勇兵を率いて上陸した。イギリスの支援を受けたこのミランダの蜂起は、しかし現地住民の動きが呼応せず失敗し、植民地当局は警戒態勢を強くした[1]。1808年5月9日、カラカスのアユンタミエント(市参事会)は、フェルナンド7世が即位したことを知るが、その2ヶ月後の7月5日には、フランス帝国ナポレオンがフェルナンド7世を追放し、兄のホセ1世をスペイン国王に据えた(これにより本国スペインではスペイン独立戦争が勃発していた)ことを、到着したフランス船が伝え、カラカス総督のフアン・デ・カサスと現地の官公吏にホセ1世への服従を求めた[2]

1809年にカサス総督は更迭され、新任のビセンテ・エムパラン総督は、イギリス他の外国との貿易を自由化するなど、現地迎合の政策を施した[2]。しかしスペイン本国の進展(セビーリャ陥落、最高中央評議会のカディス撤退、解散)の知らせで現地の不安は増し、エムパラン総督がホセ1世と接近していることが知られると、カラカスの指導者層は4月19日にエムパラン総督の罷免を決議し、フンタ「フェルナンド7世の諸権利をベネズエラ諸州が保持する最高評議会(Junta Suprema conservadora de los derechos de Fernando VII)」を設立した[2]。最高評議会の構成員の立場は一様ではなく、独立を主張する急進派(ボリーバルなど)がいた一方で、アセンダードの多くは自治派(autonomistas)であった[2]

最高評議会は議会開設の準備を進めて、1810年6月に選挙細則を決定し、選出された議会が翌1811年3月2日にカラカスの大聖堂で開催された[3]。議会は同年7月5日に「ベネスエラ・アメリカ合衆国」(Confederacion Americana de Venezuela)として、スペインからの独立を宣言した[3]。歴史学上のベネズエラ第一共和国(英語版)(1810年 - 1812年)時代が成立した。

同年12月、シモン・ボリーバルはカラカス市参事会を代表して亡命していたミランダを連れ戻した。12月21日、ラテン・アメリカ諸国で初めての憲法「ベネズエラ諸州連邦憲法」が制定された[3]。これはアメリカ合衆国憲法に強く影響を受けた憲法であったが、市民権を拒否された黒人やパルドらの反乱を王党派が巧みに利用した[4]。しかし、1812年3月のカラカス地震によりカラカスは大打撃を受け、市の2/3が崩壊すると解放軍の指導者に就任していたミランダにもスペイン軍を止めることは出来ず、かかる状況下で降伏と亡命を主張したミランダはシモン・ボリーバルによってスペイン軍に引き渡され、カディスに送られて獄死した。以降解放戦争の主導権は不屈の闘志を抱いたボリーバルに引き継がれることになる。

ボリーバルは、現在のコロンビアに当たるヌエバ・グラナダ連合州が支配していたカルタヘナに逃れて抵抗を続けた。ヌエバ・グラナダの独立指導者、アントニオ・ナリーニョフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは、1812年に崩壊したベネスエラ共和国を代表として抵抗を続けていたシモン・ボリーバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリーバルも1813年にはベネスエラを再び解放した。しかし、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増した。独立軍は連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)との不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタを喪失し、ナリーニョはスペインに連行され、投獄されてしまった。ボリーバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れたが、1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。

しかし、ボリーバルはジャマイカで有名な『ジャマイカ書簡』を書いた後、イギリスなどと友好関係を結んで援助を受けることに成功し、さらにハイチに渡ってハイチ南部を支配していたアレクサンドル・ペション大統領に、ラテンアメリカの解放後、黒人奴隷を解放することを条件に物心両面の援助を受けた。1816年にはまたもやベネスエラに上陸したが、ジャネーロ(オリノコ川流域の平原部=リャノに住む、牧童たちのこと。ベネスエラのガウチョ)の協力を取り付けただけで敗れてしまい、ハイチに引き返すことになった。そうこうしているうちにボゴタが陥落してしまったが1817年、今度は準備を整えてベネスエラに再侵攻し、スペイン軍の裏をかいてまずヌエバ・グラナダを解放しようとした。ベネスエラのアンゴストゥーラが解放された後、1818年にはジャネーロの頭目だったホセ・アントニオ・パエス(英語版)の力を借りることに成功し、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国が再建され、コロンビア共和国1819年 - 1831年)も創設された。

1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリーバルはコロンビア共和国の建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。こうしてボリーバルはヌエバ・グラナダを拠点に故国ベネスエラの解放を進め、1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)での勝利によりカラカスが解放されると、ベネスエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルーガイアナブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。

ボリーバルがペルーボリビア方面の解放に向かう中、1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリーバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となり、不在の大統領に代わってヌエバ・グラナダを治めていた。1827年のボリーバルの帰還後、コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリーバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の不満は大きくなっていった。サンタンデルは1828年にはボリーバルの暗殺を謀ったため亡命した。さらにキトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起き、もはやボリーバルの威信の低下は明らかであった。その後もボリーバルはコロンビアの分裂を回避すべく統治したが、上手く行かず、ベネスエラが独立を要求した。コロンビア共和国の維持は解放者の力量をもってしても不可能かと思われた。

1830年エクアドル(旧「南部地区」。キトグアヤキルクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)と、故郷ベネスエラはパエスの指導下で完全独立を果たし、南米大陸統合の夢に敗れ、自分の政治的な努力が全て無為に終わったことを悟った解放者は終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意の内に病死した。


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