ベニー・カーター
Benny Carter
ベニー・カーター(1984年)
基本情報
出生名Bennett Lester Carter
生誕 (1907-08-08) 1907年8月8日
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク・ブロンクス区
死没 (2003-07-12) 2003年7月12日(95歳没)
ジャンルスウィング・ジャズ、ジャズ
職業ミュージシャン、バンドリーダー、作曲家、編曲家
担当楽器サクソフォーン、トランペット、クラリネット
活動期間1920年代 - 1997年
レーベルClef、Norgran、ヴァーヴ、パブロ、コンコード、MusicMasters
公式サイト ⇒bennycarter.com
レーガン大統領(当時)とベニー・カーター
ベニー・カーター(Benny Carter、1907年8月8日 - 2003年7月12日)は、アメリカ合衆国のアルト・サックス奏者、クラリネット奏者、トランペット奏者、作曲家、編曲家、バンドリーダー。1930年代から1990年代のジャズ界における大物ミュージシャンで、彼を「王(King)」と呼ぶミュージシャンもいた。私生活では1979年にHilma Ollila Aronsと結婚し、娘が1人、孫娘が1人いる[1]。 1907年ニューヨーク生まれ。6人姉弟の末っ子で、長男だった。最初は母親からピアノの手ほどきを受けたが、おおむね独学で音楽を修め、15歳のときからハーレムのナイト・スポットで活動していた。1924年から1928年にかけて、ニューヨークのいくつかのトップ・グループでプロとしての経験を積んだ。 若いころはハーレムでデューク・エリントン楽団のスター・トランペッター、ジェームズ・バッバー・マイリー
生涯
1928年、チャーリー・ジョンソン楽団にて初録音を行なう。編曲も手がけ、翌年には自身の楽団を結成。
1930年から翌年にかけてフレッチャー・ヘンダーソンと共演し、彼の楽団のチーフ・アレンジャーとなる。その後は短期間だがデトロイト出身のMcKinney's Cotton Pickersを率いたのち[2]1932年にはニューヨークに戻り、チュー・ベリー(英語版)(テナー・サックス)、テディ・ウィルソン(ピアノ)、シドニー・カトレット (ドラムス)、ディッキー・ウェルズ(トロンボーン)などとビッグバンドでの演奏活動をした。
カーターの編曲は洗練されており、複雑巧緻で、『Blue Lou』を含む多数の楽曲が他のバンドに取り上げられたほか、デューク・エリントンなどにも編曲を提供している。その手腕は卓越したもので、中でも『Keep a Song in Your Soul』(フレッチャー・ヘンダーソン作、1930年)、サックスの流れるような編曲の『Lonesome Nights』『Symphony in Riffs』(1933)などが特筆される[3]。
1930年代初期にはジョニー・ホッジスとともに主要なアルト・サックス奏者のひとりと目された。この頃、再び手にするようになっていたトランペットの演奏機会も増え、ソロも取るようになった。
1932年、カーターの名前が初めてクレジットされたレコード『Tell All Your Day Dreams to Me』(クラウン・レーベル)発売。名義は「Bennie Carter and his Harlemites」となっている。
この楽団の活動期間は短かったが、ニューヨークのハーレム・クラブへの出演のほか、いくつかの素晴らしい録音をコロムビア、オーケー、ヴォーカリオンなどに残している。オーケー・レーベルへの録音では、カーター自身の愛称ともなった「チョコレート・ダンディーズ」の名義を用いた。
1933年10月録音のチョコレート・ダンディーズ名義による 『Once Upon A Time』( OKeh 41568、続いてDecca 18255、Hot Record Society 16としてリイシューされた)におけるトランペット・ソロは長い間ソロ演奏の金字塔とされた。
また、同年にはイギリスのバンドリーダー、スパイク・ヒューズ(英語版)と眩惑的なビッグバンド・セッションを行なっている。このセッションで録音された18曲はイギリスのみでリリースされ、名義は『Spike Hughes and His Negro Orchestra』となっていた。この常時14名から15名の編成によるバンドにはヘンリー"レッド"アレン (トランペット)、ディッキー・ウェルズ (トロンボーン)、ワイマン・カーヴァー(フルート)、コールマン・ホーキンス(サックス)、J.C. Higginbotham(トロンボーン)、チュー・ベリー(サックス)などが在籍していた[4]。
この時期、カーターが残した楽曲には『Nocturne』『Someone Stole Gabriel's Horn』『Pastorale』『Bugle Call Rag』『Arabesque』『Fanfare』『Sweet Sorrow Blues』『Music at Midnight』『Sweet Sue Just You』『Air in D Flat』『Donegal Cradle Song』『Firebird』『Music at Sunrise』『How Come You Do Me Like You Do』などがある。 1935年、ヨーロッパに移住。ウィリー・ルイス
ヨーロッパ
その中では、1937年のジャンゴ・ラインハルト、コールマン・ホーキンスとの『ハニーサックル・ローズ』が有名で、後に1961年のアルバム『Further Definitions』でも同曲が演奏された。 1938年、カーターはアメリカに戻り、あらたに結成した自楽団を率いて1939年から翌年にかけてハーレムの有名なサヴォイ・ボールルームに出演した。彼の編曲は人気があり、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、レナ・ホーン、グレン・ミラー、ジーン・クルーパ、トミー・ドーシーなどによって録音された。しかし、カーター自身のヒット曲はビッグバンド時代にElla Mae Morseによって歌われた『Cow-Cow Boogie』というノベルティ・ソング1曲のみである。その他1930年代にカーターが作編曲家として残した楽曲では『When Lights Are Low』『Blues in My Heart』『Lonesome Nights』などが古典とされている。 1943年、ロサンゼルスへ移住した後はスタジオの仕事が増え、『Stormy Weather』(1943)をはじめとする多くの映画・テレビ音楽を担当した[5]。 ちなみに、カーターは黒人として初めて映画音楽を作曲した1人であり、クインシー・ジョーンズはカーターを師と仰ぎ、1960年代に彼がテレビや映画の仕事を始めた時にもカーターを参考にしている。 ハリウッドでは、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、ビリー・エクスタイン、パール・ベイリー、レイ・チャールズ、ペギー・リー、ルー・ロウルズ、ルイ・アームストロング、フレディ・スラック、メル・トーメなどの編曲を担当した。なお、ビリー・ホリデイとは1958年のモントレー・ジャズ・フェスティバルでも共演している。 1945年には、マイルス・デイヴィス(トランペット)がサイドメンとしての初レコーディングをカーターの『Benny Carter and His Orchestra』というアルバムで行なっている[6]。 1958年、アール・ハインズ(ピアノ)、リロイ・ヴィネガー(ベース)、シェリー・マン(ドラムス)の新旧世代の混成メンバーによる1920年代アメリカのヒット曲を採り上げたアルバム『スウィンギン・ザ・20'S』を発表。続く1960年代にも新旧混成メンバーのビッグバンドによる『Further Definitions』(1961年)や、編曲を担当したペギー・リーの『ミンク・ジャズ』 (1962)などのスタジオ録音を残している。
ハーレムへの帰還、ロサンゼルスへの移住