ベニグノ・アキノ3世
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ベニグノ・アキノ3世
Benigno Aquino III

2011年5月7日
フィリピン共和国
第15代大統領
任期2010年6月30日2016年6月30日
副大統領ジェジョマール・ビナイ
フィリピン共和国
上院議員
任期2007年6月30日2010年6月30日
大統領グロリア・アロヨ
フィリピン共和国
下院議員
任期1998年6月30日2007年6月30日
大統領ジョセフ・エストラーダ
グロリア・アロヨ

出生 (1960-02-08) 1960年2月8日
フィリピン マニラ
死去 (2021-06-24) 2021年6月24日(61歳没)
フィリピン マニラ
政党自由党
出身校アテネオ・デ・マニラ大学
署名

ベニグノ・シメオン・コファンコ・アキノ3世(: Benigno Simeon Cojuangco Aquino III、1960年2月8日 - 2021年6月24日)は、フィリピン政治家。第15代フィリピン共和国大統領。テレビの司会者で女優のクリス・アキノは妹である。通称はノイノイ(Noynoy)。母コラソン・アキノの大統領在任中に発生して失敗したクーデターの際に反乱軍の兵士によって負傷させられた。
来歴

1960年2月8日にマニラにて、タルラック州の副知事であったベニグノ・アキノ・ジュニアコラソン・アキノの3番目の子として誕生した。マリア・エリーナ(愛称はバルシー)、オーロラ・コラゾン(ピンキー)、ビクトリア・イライザ(ビエール)、そしてクリスティーナ・ベルナデット(クリス)の4人の姉妹がいる。

アテネオ・デ・マニラ大学で初等教育から高校・大学まで学び、1981年に経済学学士を取得して卒業した。その後アメリカ合衆国に追放されていた家族とマサチューセッツ州ボストンで合流した。

1983年8月に父がマニラ国際空港で暗殺(英語版)された後、短い間フィリピンの企業「フィリピン・ビジネス・フォー・ソーシャルプログレス」の社員だった。1985年から1986年にかけて小売販売の監督、フィリピンにおけるナイキの若者向け販売促進のアシスタント、そして後にフィリピンのモンドラゴンの広告、販売促進のアシスタントを務めた。1986年に同族会社であるイントラ・ストラータ保証会社の副社長となった。同年11月に母のアキノ大統領の国賓訪日に同行した。

1987年8月28日にグレゴリオ・ホナサンによって起こされたクーデター未遂事件では、アキノは襲撃された大統領府から道2本離れたところにいた。彼の4人の警護官のうち3人が犠牲となり、最後の1人は彼を守りながら負傷した。アキノ自身も5発被弾し、そのうち1発は以後も彼の首に留まったままであった[1]

1993年にはコファンコ一族が所有していた精糖プラントのセントラル・アズカレラ・デ・ターラックに勤務した。

2021年6月24日の朝にマニラ首都圏の病院に搬送され、同日中に満61歳で逝去した[2][3]
政歴
下院議員

1998年6月にタルラック州第2選挙区より下院議員に当選し、それ以来多くの委員会の委員を務めた。
上院議員

フィリピン共和国憲法により、タルラック州第2選挙区からの下院議員の4選は禁止されているため、2007年3月15日の総選挙で「真の野党」より上院議員に当選した。「真の野党」は彼の自由党を含むいくつかの政党の連合体であり、グロリア・アロヨ大統領による憲法改正の阻止を目的としている。選挙運動では妹でテレビ司会者のクリス、それに母親のアキノ元大統領の支援を受けた。彼自身はカトリック教徒であるが、フィリピンで最大のプロテスタント教会の一つである「イエスは主である」より支援を受け[4][5][6]、1430万票を獲得した。改選数12人のところに立候補した37人の中で6番目の多さであった。2007年6月30日に新しいオフィスを構える。

選挙の最中に以前の敵であるグレゴリオ・ホナサン上院議員と連絡を取ろうと試み、彼の保釈をサポートした。彼は2007年3月5日に「私はホナサンの保釈を要請する。私は彼らによって首と尻を撃たれたが、それはもはや過去のことである。私の父の原則は『敵の権利も尊重せよ』であった。真の和解は民主主義の中で進む」と『セブ日報』に対して語っている[7]


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