ベトレン・ガーボル
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ベトレン・ガーボル
Bethlen Gabor
トランシルヴァニア公
オポーレ公

在位トランシルヴァニア公1613年 - 1629年
オポーレ公1622年 - 1625年

出生1580年
トランシルヴァニア公国、マロシイェ(現ルーマニア領イリア)
死去1629年11月15日
トランシルヴァニア公国、ジュラフェヘールヴァール(現ルーマニアアルバ・ユリア
配偶者カーロイ・ジュジャンナ
 カタリーナ・フォン・ブランデンブルク
家名ベトレン家
宗教キリスト教カルヴァン派
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ベトレン・ガーボル(ハンガリー語:Bethlen Gabor;ルーマニア語:Gabriel Bethlen;ドイツ語:Gabriel Bethlen von Iktar, 1580年 - 1629年11月15日)は、トランシルヴァニア公(在位:1613年 - 1629年)、オポーレ公(在位:1622年 - 1625年)、そして王領ハンガリーにおける反ハプスブルク家反乱の指導者。三十年戦争にも参加し、積極的にプロテスタント陣営を支援した。
生涯
トランシルヴァニア公

1580年、ハンガリーの由緒ある貴族ベトレン家のイクタールを領する家系に生まれた。生地はマロシイェ(現在のルーマニア領イリア)で、叔父のアンドラーシ・ラーザールの城があるサールヘジ(現在のルーマニア領ラザレア)で教育を受けた後トランシルヴァニア公バートリ・ジグモンドの宮廷に送り込まれ、そこで行われたワラキア遠征で戦功を立てた。

1605年、ベトレンはボチュカイ・イシュトヴァーンがトランシルヴァニア公となるのを支援し、自分はその首席顧問官の地位におさまった。ボチュカイの後継者となったバートリ・ガーボル公の支持者ともなったが、バートリが卓越した能力をもつベトレンを疎むようになると、宮廷にいられなくなってオスマン帝国への避難を余儀なくされた。

1613年、ベトレンはバートリと戦うべく大軍を率いてトランシルヴァニアに戻ってきたが、バートリはその年のうちに自分の2人の部下の手で殺された。こうして、ベトレンはオスマン帝国の力でトランシルヴァニア公の座にのぼった。ウィーン宮廷とつながりの強い人物がバートリの後を継ぐことを望んでいたハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は、トルコ人のイスタンブール宮廷の同盟者であるベトレンの即位に反対したが、10月13日、コロジュヴァール(現在のルーマニア領クルージュ=ナポカ)で開かれたトランシルヴァニア議会から承認され、1615年には神聖ローマ皇帝マティアスによって正式なトランシルヴァニア公と認められている。この時、ベトレンはマティアスと秘密協定を結び、オスマン帝国に対するハプスブルク帝国の戦争を支援すると約束している。

前任者達のように残虐行為や乱行を働かなかったおかげで、ベトレンは家父長的であると同時に非常に啓蒙的な絶対主義支配を確立することが出来た。彼は鉱山を開発し、産業を育成し、トランシルヴァニアで行われていた対外貿易の多くを政府の統制下においた。ベトレンの役人達は沢山の物品を固定価格で買い上げてそれを外国で高く売ったので、ベトレンの時代に公国の歳入は2倍近くに跳ね上がった。

文化の奨励も行い、首都ジュラフェヘールヴァール(現在のアルバ・ユリア)に巨大な宮殿を新築し、豪華な宮廷生活を送り、自ら讃美歌を作曲し、芸術や学問(特に自らが信奉するカルヴァン主義に関するもの)を庇護した。アカデミーも創設して王領ハンガリーから大勢のプロテスタント牧師や教師を呼び寄せ、そのアカデミーから多くの生徒をイングランドネーデルラント、ドイツのプロテスタント領邦にあるプロテスタント大学に送り込んだ。またプロテスタント牧師全員に世襲貴族の地位を与え、領主達が農奴の子供を学校に行かせないようにすることを禁止した。
三十年戦争ベトレンと学者達

ベトレンは豊かな財源を背景に有能な傭兵軍を自分に従えて、この傭兵軍を使って自らの野心的な対外政策を推進していった。彼はオスマン帝国とは友好的な関係を保ちつつ、北と西に軍隊を進めた。

ベトレンが中央ヨーロッパで三十年戦争が展開されている最中の1619年から1626年にかけて、トランシルヴァニアと隣り合う王領ハンガリーへの侵入を繰り返したのにはいくつかの理由があった。ベトレンは個人的な野心に突き動かされていた面もあったが、王領ハンガリーを支配するハプスブルク帝国の絶対主義に反対していたからである。

ハプスブルク家は王領ハンガリーに対抗宗教改革を導入することに成功しつつあり、同地域に住むプロテスタント達の財産を没収するようになり、ベトレンはプロテスタント信仰の自由を守ることに非常に敏感であった。また、ハプスブルク政府は、かつてボチュカイ・イシュトヴァーンが起こした反乱を終わらせるために結んだウィーンの和約での取り決めを無視するようになり、1615年にベトレンと交わした秘密協定をも無視してトルコとの和平を延長させ、ベトレンと敵対する上部ハンガリー(現在のスロバキアとその付属地域)の太守ドルジェト・ジェルジと同盟を結ぶに至っていた。こうしたことが、ベトレンの出兵につながったといえる。


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