ベティ・デイビス
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Bette Davis
ベティ・デイヴィス
『黄昏の惑い』(1951年)の宣伝写真
本名ルース・エリザベス・デイヴィス
生年月日 (1908-04-05) 1908年4月5日
没年月日 (1989-10-06) 1989年10月6日(81歳没)
出生地マサチューセッツ州ローウェル
国籍 アメリカ合衆国
活動期間1928年 - 1989年
配偶者ハーモン・ネルソン(1932年8月18日 - 1938年12月6日/離婚)
アーサー・ファーンズワース(1940年12月31日 - 1943年8月25日/死別)
ウィリアム・グラント・シェリー(1945年11月30日 - 1950年7月5日/離婚)
ゲイリー・メリル1950年7月28日 - 1960年7月6日/離婚)
著名な家族バーバラ・メリル(娘)
マイケル(養子)
マーゴット(養女)

 受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1935年『青春の抗議』
1938年『黒蘭の女』
カンヌ国際映画祭
女優賞
1951年『イヴの総て』
ヴェネツィア国際映画祭
女優賞
1937年『札付き女』
エミー賞
主演女優賞(ミニシリーズ/映画)
1979年『Strangers: The Story of a Mother and Daughter』
ゴールデングローブ賞
1974年 セシル・B・デミル賞
セザール賞
1986年 貢献賞
その他の賞

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ベティ・デイヴィスのサイン

ベティ・デイヴィス(Bette Davis, 1908年4月5日 - 1989年10月6日)はアメリカ合衆国マサチューセッツ州ローウェル出身の女優である。本名:ルース・エリザベス・デイヴィス(Ruth Elizabeth Davis)。

キャサリン・ヘプバーンと並ぶ、ハリウッド映画史上屈指の演技派女優で、尊敬をこめて「フィルムのファースト・レディ」と呼ばれた。
目次

1 生涯・初期のキャリア

2 転機

3 全盛期

4 中年期?後期

5 最晩年

6 人柄・人物

7 逸話

8 記録

9 主な出演作品

10 受賞歴

11 参照

12 参考文献

13 外部リンク

生涯・初期のキャリア 映画デビュー作『姉妹小町』(1931年)

弁護士である父を持ち、裕福な幼少期を過ごすが、幼い頃に両親が離婚。典型的なステージ・ママである母や姉の影響から脱せねばならなかった。

ニューヨークに移住後、ニュートン・ハイスクール、クッシング・アカデミー・ハイスクールでは演技・ダンスも学んだ。最初はダンサーに憧れていたが、高校時代にダンスを辞めて俳優を目指した。

ロチェスターの小劇団に在籍し、1928年に巡業劇団であるプロヴィンスタウン・プレイヤーズのオフ・ブロードウェイの舞台「Earth Between」に立ち、ニューヨーク進出を果たす。1929年に『Broken Dishes』でブロードウェイの舞台デビューを飾る。

舞台の主演女優として順調なキャリアを積んでいたが、舞台の傍ら、サミュエル・ゴールドウィンのスクリーン・テストを受けたが不合格となる。後にゴールドウィンは「彼女を雇わなかったのは最大の誤算であり間違いであった」と述べている。

やがて、映画女優の道を選んだデイヴィスは1931年ユニヴァーサル映画によって雇われ、スター男優のコンラッド・ネイゲル(英語版、スペイン語版)主演『姉妹小町(英語版、フランス語版)』でスクリーン・デビューを果たす。

ユニヴァーサル時代は作品に恵まれず、当時のユニヴァーサル幹部より「スターの素質はない」として解雇の憂き目にあうが、その後ワーナー・ブラザースと7年の専属契約を結び、名優ジョージ・アーリス主演の『The Man Who Played God』(1932)で注目され、49年までのワーナーとの契約期間に大スターとしての地位を築き上げることとなる。
転機

デイヴィスの転機は1934年に訪れる。ワーナーでは便利使いの適当なヒロイン役や準ヒロイン役に甘んじていたが、自分の女優としての運命を変える事となった名匠ジョン・クロムウェル監督の『痴人の愛』(原作はサマーセット・モームの『人間の絆』)と出逢う。

当初、この作品が映画化されるに当たり、ヒロインのなり手が全くなかった。モームの自伝的小説とも言える『人間の絆』のヒロインであるミルドレッドは、それまでの英米文学で描かれることの無かった人物であり、史上最低最悪のヒロインと呼ばれたほどの悪辣な女性像であった。

スター・システム全盛期に、自分のイメージを悪くするような役を演じたがる女優が居るはずもなく、ヒロイン探しは難航したが、当時ワーナーに所属していたデイヴィスが、可もなく不可もない、便利使いの適当なヒロイン役に飽きたらず、これを転機と見定め、自らミルドレッド役に志願した。

しかし、専属契約をしていたワーナーは、当時、他社であるRKOの作品への出演を認めず、デイヴィスはこれに対抗し自らの鉄の意思を貫いた。

ミルドレッド役を手にした彼女にとって、もうひとつ幸運だったのは、モームの分身を演じる共演者がイギリスの名優で監督でもある大スター、レスリー・ハワードだったことである。非常に洗練されたハワードが相方に廻ったことにより、デイヴィスは一層引き立てられ、演技に開眼したと言っても過言ではない。

『痴人の愛』が全米で公開されるや否や、デイヴィスの憎らしいまでの強烈な存在感と悪女ぶりが大評判となり、批評家や評論家も彼女を激賞した。ただし、彼女にとって不運だったことは、当時のアカデミー賞のシステムにもよるが、他社の映画で大評判を取ったことである。

これに気分を害したワーナーのボス、ジャック・ワーナー(英語版、ポーランド語版)が露骨に、かつ意図的に彼女を締め出しにかかり、デイヴィスはオスカーにノミネートされなかった(第7回アカデミー賞)。

これに怒ったのはデイヴィスでもワーナーでもなく、RKOでもなかった。当時の多くの新聞のコラムで疑問が呈され、ファンや評論家が抗議したのである。俳優仲間では親友のジョーン・ブロンデルと彼女の当時の夫で人気スターのディック・パウエルらが率先して、抗議のアピールをした。

アカデミーの事務局には、電話や電報による抗議が殺到し、収拾がつかない程の事態に陥り、デモ隊までが登場。抗議集会が開かれる寸前の所、ノミネーション発表9日目にして、どのカテゴリーもノミネーションに関係なく、誰に投票しても構わないという書き込み式の緊急措置がとられ、アカデミー会員側に通達する羽目になったのである。

しかし、デイヴィスはオスカーを受賞することはなかった。これは後に「オスカー史上の最も大きな過ち」と呼ばれ、今なおアカデミーの長い歴史を振り返る上で、忘れ去られることの無い、語り継がれるほど有名な話である。


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