ベッドフォード公爵
Duke of Bedford
創設時期1694年5月11日
創設者ウィリアム3世/メアリー2世
貴族イングランド貴族
初代5代伯ウィリアム・ラッセル
現所有者15代公アンドリュー・ラッセル
ベッドフォード公爵(英語: Duke of Bedford)は、イングランド貴族の公爵位。爵位名はベッドフォードシャーのベッドフォードに由来する。過去に5度創設されており、現存する第5期のベッドフォード公爵位は、廷臣ジョン・ラッセルが1539年に叙されたラッセル男爵位と1551年に叙されたベッドフォード伯爵位を前身とし、1694年に第5代ベッドフォード伯ウィリアム・ラッセルが叙されたのに始まる。「ベドフォード」とも表記される[1]。 1414年5月16日にヘンリー4世の第3子ジョン・オブ・ランカスター (1389-1435) が一代限りの爵位としてベッドフォード公に叙されたのが最初の創設である[2]。彼は1422年にフランス占領地の摂政となり、百年戦争後期のイングランド軍を指揮し、ジャンヌ・ダルクを火刑に処したことなどで知られる。彼の死後、爵位は消滅した[3]。 ついで1470年1月5日に初代モンタギュー侯爵ジョン・ネヴィルの長男ジョージ・ネヴィル (1461-1483) が王女エリザベス・オブ・ヨークとの結婚を見越してベッドフォード公爵に叙位されたが、彼の父がランカスター派に転じて敗死したため、エリザベスとの婚約が破談となり、さらに1478年3月に「名誉ある地位を保てるだけの財産がない」とされて議会法によって爵位をはく奪されている[4][5][6]。 その直後にエドワード4世の三男ジョージ・プランタジネット
歴史
ラッセル家前のベッドフォード公
1485年10月27日にはヘンリー7世の叔父でヘンリー7世の擁立に貢献したジャスパー・テューダー (1431-1495) に与えられたが、男子がなかったために1代で絶えた[8][9]。
ラッセル家がベッドフォード伯位を得る4代ベッドフォード伯フランシス(英語版)(1593-1641)が建設したウォバーン・アビー。
現在のベッドフォード公であるラッセル家の祖は初代ベッドフォード伯爵ジョン・ラッセル (1485-1555) である。彼は貿易商をしていた1506年1月にドーセットに難破した神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップとその妃フアナの通訳を務め、その功績でヘンリー7世の宮廷官に取り立てられた[10]。続くヘンリー8世の時代にも外交官や枢密顧問官として活躍し、修道院解散で修道院所有の荘園を次々と獲得した。ベッドフォードシャーのミルトン・キーンズ付近にあるウォバーン・アビーの荘園やロンドン中心部コヴェント・ガーデンもこの時に入手している[11]。ヘンリー8世の宮廷では粛清が相次いだが、彼は処刑されることなく、次のエドワード6世の時代まで宮廷で重きをなし続けた。1539年3月9日にはヘンリー8世よりベッドフォード州におけるチェニースのラッセル男爵 (Baron Russell, of Chenies in the County of Bedford) 、1551年1月19日にはエドワード6世よりベッドフォード伯爵 (Earl of Bedford) に叙せられている[12]。
その子である第2代伯フランシス(英語版)(1527-1585) は、エリザベス1世時代に外交官として活躍したことやフランシス・ドレイクの名付け親となったことなどで知られる[11]。
2代伯の跡は2代伯の三男ヘンリーの子であるエドワード(英語版)(1572-1627) が継いだが、彼には男子がなかったため、その死後、2代伯の四男初代ソーンホーのラッセル男爵(英語版)ウィリアム(英語版)(1558?1613) の子である第2代ソーンホーのラッセル男爵フランシス(英語版)(1593-1641) が4代伯を継承した。そのためこれ以降ノーサンプトン州におけるソーンホーのラッセル男爵 (Baron Russell of Thornhaugh, in the County of Northampton) も従属爵位に加わる[13][14]。また4代伯はウォバーン・アビーに邸宅を立てた人物であり、以降ここがラッセル家の本拠となる[15]。4代伯の長男が初代ベッドフォード公に叙されることになる第5代ベッドフォード伯ウィリアム・ラッセル(1613-1700)である。
冤罪の詫びで公爵に叙されるライハウス陰謀事件において冤罪で処刑されたラッセル卿ウィリアム・ラッセル(1639-1683)
5代ベッドフォード伯の息子のラッセル卿(儀礼称号)ウィリアム・ラッセル (1639-1683) は、ホイッグ党幹部、反カトリックの強硬プロテスタントとして庶民院で活躍した。