ベスラン学校占拠事件
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ベスラン学校占拠事件

場所 ロシア北オセチア共和国ベスラン
日付2004年9月1日 - 9月3日
標的小学校
攻撃手段爆破、銃乱射
死亡者人質334人
警察官公務員8人
救急隊員2人
特殊部隊11人
人質犯31人
合計386人
負傷者730人以上
容疑者シャミル・バサエフ(首謀者)
武装集団(約30名)
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ロシアに於けるベスランの位置

ベスラン学校占拠事件(ベスランがっこうせんきょじけん)は、2004年9月1日から9月3日にかけてロシア北オセチア共和国ベスラン市のベスラン第一中等学校で、チェチェン共和国独立派を中心とする多国籍の武装集団(約30名)によって起こされた占拠事件。

9月1日に実行された占拠により、7歳から18歳の少年少女とその保護者、1181人が人質となった。3日間の膠着状態ののち、9月3日に犯人グループと特殊部隊との間で銃撃戦が行われ、特殊部隊が建物を制圧し事件は終了したものの、386人以上が死亡[1](うち186人が子供[2])、負傷者700人以上という犠牲を出す大惨事となった。首謀者はチェチェン人シャミル・バサエフ(独立派強硬派グループコーカサス戦線の指導者)。
事件前の情勢

ロシア領北カフカスチェチェン共和国では1990年代初頭のソビエト連邦崩壊以来、独立を目指す独立派チェチェン人と、独立を阻止しようとするロシア当局側の間で対立と抗争が続いてきた。

1999年第二次チェチェン紛争の勃発以後は強力な指導力を発揮するロシアのウラジーミル・プーチン政権の攻勢によってチェチェン独立派はチェチェンの政権を追われ、親ロシア・反独立派のチェチェン人による政権が樹立されていた。しかし、ゲリラ化した独立派はこれを傀儡政権とみなして抵抗を先鋭化させてテロリズムを辞さない方針に転じ、2002年10月には人質100人以上が死亡する惨事となったモスクワ劇場占拠事件を起こした。過激化したチェチェンの独立派には、アルカーイダなどの国外のイスラム過激派組織との繋がりが指摘されている。

2004年5月9日には、チェチェン共和国の親露派政権の大統領であるアフマド・カディロフシャミル・バサエフ配下のテロリストに爆殺される事件が起こる。これに対し後任の大統領を決定する選挙が8月29日に行われることになり、プーチン大統領の支持を受けた候補が当選したが、この選挙に前後して8月21日には独立派が警察署などを襲撃して双方に60人以上が死亡、8月24日には旅客機2機が相次いで墜落して89人が死亡、8月31日にはモスクワで10人が死亡する自爆攻撃があるなど、国外のイスラム過激派の関与を思わせるものも含めて戦闘やテロが活発化していた。
事件の経過と状況現場平面図、ロシア部隊の初期配置図
事件の勃発(9月1日)

1日午前、軍用トラック1台に乗った30人ほどの黒ずくめの集団が学校を襲撃した。銃撃戦の末、警察官や犯人を含む9人が死亡、武装集団は学校を占拠して、7歳から18歳の少年少女とその保護者の計1181人を人質として体育館に立てこもった。人質には生後間もない赤ん坊も含まれていた。襲撃者達は当時改修工事を行っていた体育館の地下に事前に武器弾薬を隠し、準備を行っていたとされる。人質の数は、当初は実数より大幅に少なく、120人程度と発表された。その後ロシア当局は354人と公式発表したが、この発表は実数より少なすぎるとして地域住民から非難された。

事件の発生を受け、特殊部隊スペツナズを含むロシア軍が出動し非常線を張る。
交渉の開始(9月2日)

2日未明より、2002年のモスクワ劇場占拠事件でも交渉役をつとめたモスクワ在住の小児科医レオニード・ロシャーリを仲介に立て、解放をめぐる交渉を開始した。交渉の開始とともにロシア側は武力制圧の当面の見送りを宣言し、人質の安全確保が第一であることを強調したが、交渉は膠着した。一方、事件後に明らかにされたところによると、ロシア側はこの間に着々と突入に備えて特殊部隊の準備を行っていた模様である。人質には充分な食料は与えられなかった。

占拠グループは、人質解放のために以下の条件の実行を要求した。

イングーシ共和国に捕まっている同胞の解放。

チェチェン共和国からのロシア軍の撤退。

北オセチア共和国およびイングーシ共和国の大統領との直接対話。

2日午後には、過去にもチェチェン独立派と交渉を重ねた経験のあるイングーシ共和国前大統領ルスラン・アウシェフの仲介により、人質のうち赤ん坊とその母の26人が解放された。
突入と解決(9月3日)

3日未明、武装集団側が学校を包囲する警官隊に発砲し、警察官1人が負傷した。また、2日の交渉開始以来、武装集団側が睡眠薬などの混入を恐れて人質への水や食料の差し入れを拒否し続けていたため人質の健康悪化が懸念され、武力突入への緊張が高まった。

13時04分頃、武装集団が立てこもる体育館で起きた「爆発」をきっかけに銃撃戦となった。

銃撃戦が始まった経緯については情報が錯綜しており、真相は明らかではない。ロシア側当局は当初、死体を引き取りにいった際に銃撃されたため、発砲、突入と発表していた。その他、現地にいた親が持参した銃器の発砲音を犯人グループが特殊部隊の突入と勘違いしてはじまったとする説、犯人側が体育館にしかけた爆弾が偶発的に爆発したのがきっかけとする発表などが報道に流されている。突入前に特殊部隊の一部兵士が先走り、砲撃・機銃掃射を行ったとの目撃証言を市民や人質が行っている[要出典]等、いまだはっきりしていない。
突入時の状況

人質は、約1000人がバスケットコート1面分くらいの面積しかない体育館に「すし詰め」状態だった。このため、館内は蒸し暑く、救出時には上半身裸の人質の姿が多く見られた。また、救出されるまでの50時間以上もの間、食事もなく水も与えられなかったため、衣服に尿を染み込ませ飲ませる親もいた。

また、自分の子供を人質に取られた親が、銃器を持ち現場に入り込んでおり、特殊部隊の突入時には、逃げ出す人質と相まって、現場は大混乱に陥った。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また、この混乱に乗じて犯人グループの何人かが、人ごみに紛れて逃げようとしたが、群集に取り囲まれて虐殺された(虐殺は極めて凄惨で、親達は犯人の四肢、あるいは首を切断。肉を引きちぎっていたという情報もある)。[要出典]犯人グループの1人が拘束された。

突入後までに出た被害に関し、報道で明らかにされた情報は以下の通りである。

体育館は屋根が崩落し完全に崩壊。

死傷者1000人以上。

そのうち死者は最低で335人以上、その内156人が子供。


行方不明者176人以上。

占拠グループの詳細

中学校を占拠した集団は全部で32人、うち2人が女だったとされ、彼らはイスラム原理主義過激派ジャマートのメンバーであると報じられた。


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