ベストヒットUSA
Best Hit USA
ジャンル音楽番組
出演者小林克也
オープニングヴェイパー・トレイルズ(ヴィーティーズ)『Don't Worry Baby』(邦題:サーフ・サイド・フリーウェイ)
(ただし、2013年4月 - 2015年8月の期間はA.L.L.Y. 『The Walk』。また、ベストヒットTODAY期では、poco 『Call It Love』)
製作
制作テレビ朝日
放送
音声形式ステレオ放送
放送国・地域 日本
Bridgestone Sound Highway
ベストヒットUSA
放送期間1981年4月4日 - 1989年9月30日
放送時間土曜日 23:25 - 翌0:10
(1981年10月 - 1987年9月)
土曜日 23:30 - 翌0:15
(1987年10月 - 1989年9月)
ベストヒットUSA(BS朝日版)
放送期間2003年4月 - 現在
放送時間火曜日 23:00 - 23:54
(2003年4月 - 2015年3月31日)
金曜日 23:00 - 23:30
(2015年4月3日 - 2016年9月30日)
金曜日 23:00 - 23:24
(2016年10月7日 - )
土曜日 0:00 - 0:30( - 2024年3月29日)
木曜日 23:30 - 0:00(現在)
BS朝日による公式サイト
『ベストヒットUSA』は、日本のテレビおよびラジオの音楽番組。アメリカ合衆国のラジオ&レコーズおよびビルボードのデータを元にした独自のヒットチャートを紹介している。この項目では主にテレビ版について記述し、ラジオ版は末尾の節に後述する。
1981年から1989年にテレビ朝日ほかで放送されたのち、1993年のラジオでの再開、CS局などでの別タイトルでの事実上のテレビ版再開などを経て、2003年にBS朝日ほかでテレビ版の放送を再開した。司会(VJ)は第1回から一貫して小林克也が務めている。 1981年4月、テレビ朝日系・ブリヂストンの一社提供番組『Bridgestone Sound Highway ベストヒットUSA』(ブリヂストン・サウンド・ハイウェイ ベストヒットUSA)の番組名でスタート[注 1]。アメリカで人気を集めるポップスやロックにスポットライトをあて、最新のヒットチャート、注目の楽曲の紹介をプロモーションビデオを交えて放送し、深夜の時間帯にもかかわらず人気を博した[1]。 当時テレビではなかなか触れることの出来なかった洋楽ロックの魅力を豊富なメニューで紹介し'80年代の洋楽人気を牽引[1]、これを切っ掛けにロック・ファンになったり、洋楽アーティストへの興味が深まった人も多い[2][3][4][5][6]。 司会者・小林克也は「準備段階では参考になる番組はアメリカにもなかった。まだ音楽を宣伝するためのミュージック・ビデオが少なくて、ライブ映像なんかを使って工夫しました。いわば自信も前例もない新番組。3ヶ月か6ヶ月で終わるだろうなと思っていました。だが、これが時代の流れにうまく乗ったんです。アメリカの音楽専門番組MTVがほぼ同時期に開局して、徐々に音楽の宣伝に映像を使うことが流行し始めました。番組のチャートに新しく入った作品が毎週放送日の翌日に3?5倍くらい売れるようになったんです。私もスタッフも少し尖った若者も新しいものを追い求めていたんだと思います。『最新の映像を見ることができる』と受けたんでしょう。『あの番組だけはチェックしていた』という人が多かったらしい。ビデオがようやく普及し始めた時期だから、みな同時に見ている。翌朝『あの曲、良かったね』って盛り上がる。まだ、洋楽そのものの情報が少なかったので、みんな同じ方向を向いていた時代だったんですね。僕は元ラジオ少年、岩国の極東放送を必死で聴いて英語の発音を覚えました。アメリカ本土ではジャンルごとに局が違うんですが、基地向けの放送は全部一緒。プレスリーにカントリー、ハワイアンもかかる。ラジオは宝箱でした。その経験が番組の進行に大いに生きたと思います」[1]「'80年代も僕から見るとつまらない音楽もありました。でも『ベストヒットUSA』はみんな紹介してきた。だから間口が広がって、いろんな人たち、'80年代に青春を過ごした人たちには相当インパクトがあったと思います」などと述べている[7]。 この番組が始まるまでは、日本で"海外アーティストが動く姿(映像)"を目にするのは、NHKの『ヤング・ミュージック・ショー』か、今野雄二が出演した水曜日の『11PM』(日本テレビ/読売テレビ)で、断片的に見られる程度であった[3]。結果的に80年代は日本の歴史上いちばん洋楽がお茶の間に侵食した時代となったが[3]、その最大の洋楽VC番組が『ベストヒットUSA』であった[3][8]。『ベストヒットUSA』は日本のミュージシャンやクリエーターに多大な影響を与えた[3][5][6]。 8年間の放送の間に、スタジオセットは数回変更されたが、タイトルロゴのネオンサイン、柱に取り付けられた「ON AIR」ランプ、年号の入ったボードの3つは、終始変わることなく配置された。のちのBS朝日版のスタジオセットにも、これらは受け継がれている。 番組の歴史は1980年秋、ブリヂストンから「(主力商品である自動車用タイヤの購入層において)10代から20代をターゲットにした洋楽番組を作りたい」との提案が博報堂に持ち込まれたことに始まる[9][10]。博報堂の下谷一博(元博報堂プロデューサー)らを中心に企画が進められた。下谷は当時、テレビ・ラジオの企画の他、ハリソン・フォードやシャロン・ストーンなど外国人タレントを起用したCMの契約や交渉、クインシー・ジョーンズやスティーヴィー・ワンダーなどのコンサートを手掛けていた[9]。自分たちで立てた企画でスポンサーを説得してテレビ局に持ち込むという仕事の一つが当番組であった[9]。 折しも博報堂では、従来とは異なる番組を開発する部門が立ち上がったばかりであった。この部門が「1980年代には、日本の家庭で1世帯につき2台のビデオデッキを保有することや、テレビ番組をビデオデッキで録画してから個別に視聴することが当たり前になる」と予測したことを踏まえて、部屋ごとに置かれたテレビでの録画を含めた視聴を想定したうえで、ブリヂストンからの提案に応じた。 パーソナリティは小林克也しかいないと最初から決められていた[9]。音楽的知識も豊富で声もいい、通訳なしでインタビューができるし、特定のジャンルではなく幅広く音楽を語れる、適任という意見で一致した[9][11]。当時ラジオで『スネークマンショー』をはじめ多くのレギュラー番組を持っていたDJ・小林は、実験的新番組にはうってつけの人選ではあった[12][13]。ところが小林はラジオの仕事が忙しく、たまに頼まれて出て観ていたテレビの仕事の進め方も好きではなく、テレビ出演には乗り気でなかった[1][7][11][14]。
概要
沿革
番組開始までの経緯