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ベーブ・ルース
Babe Ruth1920年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地メリーランド州ボルチモア
生年月日 (1895-02-06) 1895年2月6日
没年月日 (1948-08-16) 1948年8月16日(53歳没)
身長
体重6' 2" =約188 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手、外野手
初出場1914年7月11日
最終出場1936年5月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
セント・メアリー少年工業学校
ボストン・レッドソックス (1914 - 1919)
ニューヨーク・ヤンキース (1920 - 1934)
ボストン・ブレーブス (1935)
コーチ歴
ブルックリン・ドジャース (1938)
アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1936年
得票率95.13%
選出方法BBWAA選出
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ジョージ・ハーマン・"ベーブ" ・ルース・ジュニア(George Herman "Babe" Ruth, Jr., 1895年2月6日 - 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国・メリーランド州ボルチモア出身のプロ野球選手。童顔であったことから「バンビーノ(The Bambino)」「ベーブ(Babe)」[注 1]の愛称で呼ばれた。 MLBで1914年から1935年まで、通算22年間プレイした。 アメリカの文化において最も偉大なスポーツ界の英雄の1人であり、史上最も偉大な野球選手であるとみなされている。1936年には、最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人のメンバー
概要
左投げの花形投手としてボストン・レッドソックスでメジャーデビューし、外野手の強打者としてニューヨーク・ヤンキースで最も名声を博した。打者としての生涯通算成績で、714本塁打[注 3]、2213打点、2062四球、長打率.690、OPS1.164、本塁打王12回など、数々のMLB記録を打ち立てており、うち最後の3つは2024年現在も破られていない。
7歳のとき、セント・メアリー少年工業学校(英語版)という少年矯正施設に送られ、同校の教官でザベリオ教職会員(英語版)の修道士マシアス・バウトラーと出逢い、有能な野球選手でもあった同師に野球の手解きを受ける。
1920年以前のデッドボール時代(いわゆる「飛ばないボール」の時代)において、他に例を見ないほどの離れ業をやってのけ、1916年までには飛距離の長い本塁打を打つ傑出した投手として名声を築いていた。投手としては2度のシーズン23勝を記録し、レッドソックスで三度のワールドシリーズ制覇を経験したが、自身は毎日プレイすることを希望し、外野手に転向することになった。
1919年には29本塁打を放ち、当時のMLBシーズン最多記録を更新した。同シーズン終了後、レッドソックスのオーナーであったハリー・フレイジーは球団経営を巡る論争の最中にルースをヤンキースに売り渡した。このトレードにより、レッドソックスはその後86年間にわたりワールドシリーズチャンピオンの座から遠ざかることとなり、これを「バンビーノの呪い」の所為としたジンクスが、ボストンのファンを中心に広まった。
ルースはヤンキース移籍後の15年間で、7度のア・リーグ優勝(英語版)と4度のワールドシリーズ制覇に貢献した。大きなスイングで通算本塁打数を伸ばし、ファンを球場に引きつけ、野球の人気を高めた。そしてライブボール時代(「よく飛ぶボール」の時代)の到来を告げる形となり、以降、野球は低スコアに抑えて投げ勝つゲーム戦略のスポーツから、本塁打を1つの主要な勝利の要因とするスポーツへと進化した。
1927年には、ヤンキースの「殺人打線(英語版)」の一員として60本塁打を放ち、自身の持つMLBシーズン記録を1本上回り更新した[注 4]。1934年のシーズンを最後にヤンキースを去り、翌年ボストン・ブレーブスに短期間在籍した後、現役を引退した。
ルースは生涯を通じて、自身の野球の功績からフィールド外での飲酒や女遊びの嗜好まで、過熱する報道と大衆の注目の的であった。引退後は、選手時代の素行の悪さが原因で、メジャーリーグクラブの監督になることを拒否されていた。晩年は公の場に姿を見せることが多く、特に第二次世界大戦においてはアメリカの努力を支持した。
1946年、鼻咽頭癌(英語版)を患い、それが原因となり2年後に死去した。死後もアメリカの文化の一部であり続けており、2018年にはドナルド・トランプ大統領から大統領自由勲章を追贈された。 メリーランド州ボルチモア市ピッグタウンエモリー通り216番地に生まれた。ドイツ系移民であった両親のジョージ・ハーマン・シニア(George Herman Sr.1871 - 1918)とケイト(Kate 1874 - 1912)は、カムデン通り沿いで酒場を自営しており、家族はその2階で暮らしていた。ケイトはルースを含めて生涯に9人の子供を産んだが、成人期を迎えることができたのはルースと5歳年下の妹マミー(Mamie 1900 - 1992)の2人だけであった。 ルースは後年、自らの幼年期を振り返って「大変だった」と語っている。母は病弱であり(ルースが15歳のときに結核で亡くなっている)、父は酒場の仕事で忙しく、息子の世話に関わっている余裕はほとんどなかった。そのため、両親から適切な教育を受ける機会のなかったルースは大人の手にも余る腕白坊主へと成長し、勉強も完全に疎かになってからは、学校をサボっては通りをうろつき、町の不良たちと喧嘩に明け暮れ、商店の品物を万引きしたり、酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど、様々な非行に手を染めた悪童であった。 7歳になった頃には既に両親の手には負えなくなり、セント・メアリー少年工業学校
経歴
生い立ち
セント・メアリー少年工業学校
マティアスはルースに勉強や洋服の仕立て方を教え[注 5]、休みの時間には野球のルールや打撃・守備のやり方などを教えた。ルースはその他に学校の吹奏楽部と演劇部にも所属していた。ルースの自伝によると、マティアスは大変な美男で、外の世界に出ればすぐに俳優として活躍できるのではないかと思えるほど見た目が良かった上に、身長6フィート6インチ(約198cm)、体重250ポンド(約113kg)という堂々たる体格の大男であり、ルースは初めてマティアスと対面した瞬間から、それまでに体験したことのない威圧感と畏敬の念を覚えたという[注 6]。また、マティアスはバットを片手で振るだけで、ボロ布で作った粗末なボールを100m以上も飛ばせるほどの腕力の持ち主であった。
当時、セント・メアリーには800人ほどの少年が収容されており、20から30人ほどのブラザー(神父)が少年たちの教官を務めていたが、その中でもマティアスほど少年たちから慕われていた教官は他にいなかったとルースは語っており、実際にもマティアスはルースの卒業後にセント・メアリーの校長に昇格している。また、ルースがマティアスを尊敬していたエピソードとして、ルースは歩く時に内股にして足を引きずる癖があったが、マティアスの癖を真似たものであり、その癖は生涯治らなかった。
なお、ルースが23歳のとき、ルースの父は自身が経営していた酒場で客同士の喧嘩に巻き込まれて命を落としている。しかし、ルースは母が亡くなったときには非常に悲しんだが、父とは疎遠であり、父が亡くなったときにはそれほど悲しんだ様子はなかったという[注 8]。もともと酒場で年中働き詰めだった父とは顔を合わせることも少なく、7歳のときからセント・メアリーで実の父よりも長い期間をマティアスと共に過ごしたルースにとっては、マティアスこそが「育ての父」であった。