ベア川の虐殺
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ベア川の虐殺
Bear River massacre
南北戦争インディアン戦争)中

1863年1月29日
場所ワシントン準州南東部(現在のアイダホ州フランクリン郡
結果アメリカ陸軍の勝利

衝突した勢力
アメリカ陸軍ショーショーニー族インディアン
指揮官
パトリック・エドワード・コナーベアハンター
戦力
200名の志願歩兵と騎兵500名 
被害者数
戦死27名、負傷40名200名から400名が虐殺された 

ベア川の虐殺(ベアかわのぎゃくさつ、英:Bear River massacre、またはベア川の戦い、英:Battle of Bear River、またはボア・オゴイの虐殺、英:Massacre at Boa Ogoi)は、1863年1月29日に、当時のワシントン準州南東部ベア川とビーバー・クリーク(現在のバトル・クリーク)の合流点で、アメリカ陸軍が、ショーショーニー族インディアンを無差別虐殺した軍事行動である。

この戦場跡は現在、アイダホ州フランクリン郡プレストン市近くに位置する。アメリカ陸軍分遣隊はショーショーニー族に対抗するベア川遠征の一部としてパトリック・エドワード・コナー大佐に率いられた。
背景と根本原因ショーショーニー族の夏の野営用住居(ティーピー)、19世紀後半

この当時「スーフベオゴイ」(ショーショーニー語でヤナギ渓谷)と呼ばれていたキャッシュ・バレーは、伝統的に北西部ショーショーニー族の狩猟場であり、特に穀物や草の種の集積場であると同時に、ウッドチャックジリスのような小動物とシカエルクバッファローのような大型動物両方の狩猟場であり、さらには川マスも獲れる場所だった[1]。この山岳渓谷は白人の毛皮交易業者や罠猟師も惹き付け、ジム・ブリッジャージェデッドアイア・スミスのような罠猟師や探検家がこの地域を訪れていた。「キャッシュ・バレー」という名前は、これら罠猟師が周辺の山脈における狩猟行の中心準備地域としてこの渓谷にその毛皮と物資の倉庫(すなわち毛皮の「キャッシュ」貯蔵所)を置いていた事から生まれたものである[2]

罠猟師達はこの地域に大変感銘を受けたので、ブリガム・ヤングモルモン開拓者の当初定着の場所として検討するよう推薦したくらいだった。ヤングはここではなく、ソルトレイク・バレーを選定したが、それでもモルモン入植者はキャッシュ・バレーにも移動することになった[3]1847年7月31日には既に、約20名のショーショーニー族代表団がモルモン入植者と会見してユタ北部の土地所有権主張について検討した[4]
白人移民の増加によるショーショーニー族の飢餓

カリフォルニア・トレイルオレゴン・トレイルが確立され、1847年にはソルトレイクシティが設立されたことで、ショーショーニー族は西進する白人移民と常に接触するようになった。1856年までに、ウェルズビルを初めとしてキャッシュ・バレーでは初の恒久的入植地と農場が造られ、次第に北方へ延びていった[5]

当時、モルモン教徒の主導者であるブリガム・ヤングは、モルモン入植者が周辺の先住インディアン部族と友好的な関係を築き上げることを提唱し、特に「戦うよりも食べさせる」方針を強調した[6]。しかし、この方針とは裏腹に、白人は野生の食糧資源を採りつくし、さらに彼らによる土地の収奪のために、次第に狩猟採集民であるショーショーニー族は食べ物の少ない地域に追いやられることになっていった。さらに、西へ向かう幌馬車隊の白人たちが食料調達したり狩猟を行うことで、ショーショーニー族からさらに食資源を奪う結果となった。1859年には既にユタ準州インディアン問題監督官ジェイコブ・フォーニーがこれを認めるところとなり、「インディアンは...白人が入ってくることによって貧窮化が進んだ」と記している。フォーニーはさらに、キャッシュ・バレーにインディアン保留地を造って、ショーショーニー族にとって基本的な資源を守ることを提案した。この提案をアメリカ合衆国内務省とその上官は無視した[7]。ショーショーニー族は絶望的に飢えてきており、報復のためではなく、生き残るために近くの農場や牛牧場を襲うようになった[8]

1862年早春、ユタ準州インディアン問題監督官ジェイムズ・デュアン・ドティはキャッシュ・バレーで4日間を過ごし、「かなりの数のインディアンが飢えて貧窮した状態にある。私の前任者は彼等のために何の対策もしていないし、衣類や食料も無い。...インディアン達は生きていくために、交易所に泥棒に入りかねない状況だ」と記した[9]。ドティは食料を買い求め、それを暢気に分配した。インディアン達に家畜を与えれば、乞食ではなく牛飼いにすることができると考えたのである。

1862年7月28日、キャッシュ・バレーの真北にあるモンタナ準州南西部の山岳地、グラスホッパー・クリークでジョン・ホワイトが金を発見した[10]。このことで、金鉱に最も近い物資供給点であるソルトレイクシティと、鉱山キャンプの間に、キャッシュ・バレーの中央を抜ける移民と物資供給の道ができた[11]

ショーショーニー族は定住を行わず、獲物を追って移動生活をおくっていた狩猟民族である。米軍は以後、彼らの足取りを追うことに躍起となっているが、そもそも「放浪」はショーショーニー族の伝統文化である。
南北戦争の勃発

1861年南北戦争が始まったとき、エイブラハム・リンカーン大統領は、このとき州になっていたカリフォルニア州がアメリカ合衆国から独立するのではないかと危惧した。リンカーンは議会の承認を得て、カリフォルニア州民から数個連隊を募り、西部と東部を繋ぐ郵便配送経路と通信線を守るために配置するよう具体的な命令を出した[12]。さらにブリガム・ヤングが「ユタ準州は連邦政府に対して忠実なままである」と電報を打って保証したにも拘わらず、リンカーンも陸軍省もこれを信用しなかった[13]。モルモン教徒がインディアン部族と結託して、ユタ州にやってくる後続の入植者を虐殺したユタ戦争や「マウンテン・ミードーズの虐殺」で、モルモン教徒がとった行動はまだ軍隊参謀達の記憶の中に鮮明だった。モルモン入植者の大民兵隊は、このとき連邦政府に対してではなく、ブリガム・ヤングの要請に応えていたのである[14]パトリック・エドワード・コナー

パトリック・エドワード・コナー大佐[15]がカリフォルニア第3志願歩兵連隊の指揮に就き、山越えの郵便配送経路を守り、「地域の平和を保つ」という勅令で部隊をユタに移動させた[16]。ユタに到着すると、モルモン神殿建設地とソルトレイクシティ中心街が見通せる場所にダグラス砦(現在のユタ大学があるところに隣接)を部隊の主要作戦基地として設立した[17]
キャッシュ・バレー入植者に対する警告と紛争

1862年の夏と秋にあった幾つかの出来事が、ショーショーニー族とコナー大佐の間の衝突に繋がっていった。これらのできごとを一つ一つ見ていくと重要では無いように見えるが、一つに纏めるとミシシッピ川の西側ほとんど全体に関わる広範な闘争の姿が見えてくる。この時期アメリカ合衆国全体の注意は東部州で進展する戦い(南北戦争)に向けられていた。現代の歴史家達は、2つの異なる準州司法権(ワシントン準州とユタ準州)の境界が曖昧な地域で事件が起こったために、しばしばこれらの事件を見過ごしてきた。各事件は地理的に近接した所で起こったが、それらを取り扱う管理中心は互いに1,000マイル (1,600 km) 以上離れていた。実際に現在のアイダホ州フランクリン近辺や紛争の一般的な場所はユタ準州内と考えられ、フランクリンの住民は1872年までユタ準州議会に選出した代議員を送り、ユタ州キャッシュ郡の政治に参加していた。その1872年に1つの測量チームがフランクリンなどは実際にはアイダホの中にあることを指摘した[18]


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