ベアリングス銀行
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ベアリングス銀行
Barings Bank略称ベアリングス
本社所在地
イギリス
ロンドン
設立1762年 - 1995年2月26日
業種銀行業
関係する人物初代準男爵サー・フランシス・ベアリング
初代アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリング
トマス・ベアリング(英語版)
ジョシュア・ベイツ(英語版)
初代レヴェルストーク男爵エドワード・ベアリング
ニック・リーソン
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ベアリングス銀行(: Barings Bank)は、1762年フランシス・ベアリングによって創業されたイギリス投資銀行。女王陛下の銀行と呼ばれるほどの名門で、財閥ベアリング家によって同族経営された。1995年に経営破綻した。
歴史
ロンドンシティの銀行

1762年に初代準男爵サー・フランシス・ベアリング(1740-1810)によってロンドンシティにおいて最古のマーチャント・バンク(英語版)として創設された[1][2]。ベアリングス銀行は大英帝国拡張の時流に乗って貿易商人たちの手形の引受で業績を伸ばしていき、1793年までにはロンドン最有力の引受業者に成長した[3]

19世紀初めのフランシスの引退後、長男第2代準男爵トマス・ベアリング(英語版)(1772-1848)、次男初代アシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリング(1774-1848)、三男ヘンリー・ベアリング(英語版)(1777-1848)の3人が銀行を受け継いだのに伴い、1807年に「ベアリング・ブラザーズ(Baring Brothers & Co)」と社名を変更している[4]
アメリカ独立後

ベアリングス銀行は、早い段階でアメリカの将来性に目をつけてアメリカ進出を行った。とりわけ初代アシュバートン卿がベアリングス銀行の経営を主導するようになるとそれが強力に推し進められるようになった。ベアリングス銀行は建国されたばかりのアメリカ合衆国のロンドンにおける代理人となり、1803年にはアメリカがフランスからルイジアナを買収できるよう取り計らい、その代金であるアメリカ政府債の発行の引受を行っている[4][5]

18世紀末から19世紀初頭の戦争(フランス革命戦争ナポレオン戦争)も大きなビジネスチャンスとなり、この戦争でベアリングス銀行はイギリス戦時公債の最大の引受会社となり、また戦後もフランスの賠償金の公債の引受を行った[3]フランス復古王政の宰相である第5代リシュリュー公爵アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシはこの頃のベアリングス銀行の繁栄を指して「ヨーロッパには6つの強国がある。イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシア、そしてベアリング・ブラザーズだ」と評している[4]

1828年にはアメリカ人銀行家ジョシュア・ベイツ(英語版)(1788-1866)がベアリング家以外から初めてパートナーに就任し、アメリカでのビジネスの更なる拡大がはかられた。彼の主導のもとベアリングス銀行は1840年代のアメリカのテキサスニューメキシコ、アッパー・カルフォルニアのメキシコからの買収に大きく関与した[6]。またベイツはフランス皇帝ナポレオン3世と個人的に関係が深く、ナポレオン3世やベルギー国王レオポルド1世フランス貴族(ユルトラ・亡命貴族)などから預金口座を預かった[7]

1830年の初代アシュバートン卿の引退後、その甥トマス・ベアリング(英語版)(1799-1873)がベアリングス銀行の経営を主導するようになった[7]。貿易で利益を上げ続け、ボストン広東の茶を手に入れるにはマセソンかベアリングの信用が必要不可欠と言われた。19世紀中期には自社のために投資(後に『自己勘定による取引』と名付けられた取引方法)するほど資産が豊かとなり、イギリス、ロシアオーストリアの株式やパナマ運河の債権、アメリカ鉄道株への投資も始めた。

ベアリングス銀行が1860年から1890年までにアメリカ・カナダに行った融資額は5億ドルに達した[8]。19世紀中にはベアリングス銀行は英国マーチャントバンク界においてN・M・ロスチャイルド&サンズと双璧する存在となり、世紀の終わりには英国王室御用達となって「女王陛下の銀行」the "Queen's Bank" とまで称された[9]

1873年のトマスの死後、従兄弟の初代レヴェルストーク男爵エドワード・ベアリング(1828-1897)が経営を主導した。彼はベアリングス銀行の南米進出を押し進めたが、1890年アルゼンチンで革命と利払い不能があり、それによって800万ポンドの損失を出した。イングランド銀行やライバル銀行から救済を受けて経営破綻を免れたが、この際にイングランド銀行理事の勧告を受け入れる形でベアリングス銀行は株式会社に転換されている。株はベアリング家で持ちあった[10]

19世紀末から20世紀初頭にかけては業績を回復させ、特にアメリカビジネスで大きな成功を収めた。またロシア、カナダベルギートルコ日本などと関係を深めた。日本との関係では1902年の鉄道建設費の調達や1905年の日露戦争の戦費調達にベアリングス銀行が大きく貢献している[11]
第二次大戦後

しかし二度の世界大戦によってイギリスの国際的地位は大幅に低下し、ポンドは下落、ロンドンでの外債発行も激減した。これによってベアリング家のみならずイギリスのマーチャントバンク業界そのものが衰退を余儀なくされた[12]戦間期のマーチャントバンクは投資信託や投資顧問業を主軸とするには至らなかったので、世界恐慌の直撃を受けないかわりに国際金融市場の主役から降ろされてしまったのである。それでもなおベアリングス銀行は「女王陛下の銀行」であった。1966年イギリス王室スエズ運河会社の持株比率を下げるまでは、王室財産を大英帝国の威光と共によく保全したのである。

しかしユーロカレンシーユーロ債市場を興隆させ、ブレトンウッズ協定を粉砕すると、ベアリングス銀行も古いつてを頼って流行に便乗しようとした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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