ウィリアム・シェイクスピアの史劇については「ヘンリー六世 (シェイクスピア)」をご覧ください。
ヘンリー6世
Henry VI
イングランド国王
在位1422年8月31日 - 1461年5月4日
1470年10月30日 - 1471年4月11日
戴冠式1429年11月6日
別号フランス国王(僭称)
出生1421年12月6日
イングランド王国、ウィンザー、ウィンザー城
死去 (1471-05-21) 1471年5月21日(49歳没)
イングランド王国、ロンドン、ロンドン塔
埋葬1485年
イングランド、ウィンザー、ウィンザー城
配偶者マーガレット・オブ・アンジュー
子女エドワード・オブ・ウェストミンスター
王朝ランカスター朝
父親ヘンリー5世
母親キャサリン・オブ・ヴァロワ
サイン
テンプレートを表示
ヘンリー6世(Henry VI, 1421年12月6日 - 1471年5月21日[1])は、ランカスター朝最後のイングランド王(在位:1422年8月31日 - 1461年5月4日、1470年10月30日 - 1471年4月11日)。フランス王も兼ねた(在位:1422年 - 1453年)。1437年まで摂政が後見。ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴァロワの子。
同時代人からは、平時は平和主義で敬虔だが、非常時は自身が直面した苛烈な抗争には不向きな人物として描かれた。彼の精神錯乱と生まれ持った博愛心は、やがて薔薇戦争の開始による自身の没落とランカスター朝の崩壊、ヨーク朝の台頭につながった。 ヘンリー6世は1421年12月6日、ヘンリー5世とキャサリン夫妻の唯一の子としてウィンザー城で誕生し、1422年8月31日、生後9ヶ月で父の死によりイングランド王位を、2ヶ月後の10月には母方の祖父であるシャルル6世の死により、1420年のトロワ条約に従ってフランス王位を継いだ。当時20歳の母はシャルル6世の娘として疑惑の目を向けられ、息子の養育に十分な役割を果たすことは許されなかった。 翌1423年9月28日、貴族達はヘンリー6世に忠誠を誓った。彼らは国王の名の下に議会を召集し、ヘンリー6世の成年まで摂政会議(評議会)を置いた。叔父の1人ベッドフォード公ジョンは王国の摂政に任命され、フランスでの戦争継続に当たった。ベッドフォード公の不在中イングランド政府の首班は、護国卿に任じられたもう1人の叔父でベッドフォード公の弟グロスター公ハンフリーであった。 ヘンリー6世の任務は平和の維持と議会の召集に限定された。ウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート(1426年以降は枢機卿)と弟のエクセター公トマス・ボーフォートはヘンリー6世の大叔父(ヘンリー6世の祖父であるヘンリー4世とボーフォート兄弟はともにジョン・オブ・ゴーントの子であったが、彼らは腹違い)であり、評議会の重要人物であった。1435年のベッドフォード公の死後、グロスター公は摂政の座を要求したが、これは評議会の他のメンバーの反対にあった。 1428年からヘンリー6世の傅役はウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムで、彼の父トマスはリチャード2世の統治に反対した貴族勢力の中心人物であった。 ヘンリー6世の異父弟エドマンドとジャスパーは、未亡人となった母が秘書官で事実婚の相手でもあったオウエン・テューダーとの間に儲けた子であり、後にそれぞれリッチモンド伯とペンブルック伯に叙された。エドマンドはマーガレット・ボーフォート(ボーフォート兄弟の大姪でヘンリー6世の又従妹)と結婚、2人の間に生まれた子が後にイングランド王位に就くヘンリー7世であり、ヘンリー6世にとって甥に当たる[2]。 ヘンリー6世は1429年11月6日、8歳の誕生日の1ヶ月前にロンドン・ウェストミンスター大聖堂でイングランド王の戴冠を受けた。そして母方の叔父でヴァロワ朝のシャルル7世が4ヶ月前の7月17日にランス・ノートルダム大聖堂でフランス王戴冠式を挙行したことを受け、1431年12月16日、パリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠した[3]。 ヘンリー5世の死後、1429年5月のオルレアン包囲戦と6月のパテーの戦いにおけるジャンヌ・ダルクの勝利に始まるヴァロワ朝の失地回復の中、イングランドにおける百年戦争継続の機運は失速していた。フランス前線で指揮を執っていたベッドフォード公は何とか劣勢を覆そうと奮闘したが、イングランド領ノルマンディーで現地住民の不満や軍事費が嵩む赤字財政が増大してゲリラで身動きが取れず、同盟者のブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)もイングランドとの協力に消極的でネーデルラントの完全領有しか関心を示さなかった。
生涯
幼君
親政の開始と対仏政策