ヘンリー2世_(イングランド王)
[Wikipedia|▼Menu]

ヘンリー2世
Henry II
イングランド国王
ヘンリー2世
在位1154年12月19日 - 1189年7月6日
別号ノルマンディー公アンジュー伯、メーヌ伯

出生1133年3月5日
フランス王国メーヌ伯国ル・マン
死去 (1189-07-06) 1189年7月6日(56歳没)
フランス王国アンジュー伯国シノン城
埋葬 フランス王国フォントヴロー修道院
配偶者アリエノール・ダキテーヌ
子女一覧参照
家名 プランタジネット家
王朝プランタジネット朝(アンジュー朝)
父親アンジュー伯ジョフロワ5世
母親マティルダ
テンプレートを表示

ヘンリー2世(英語: Henry II, 1133年3月5日 - 1189年7月6日[1])は、プランタジネット朝(あるいはアンジュー朝)初代のイングランド王国国王(在位:1154年 - 1189年)である。ノルマンディー(在位:1150年 - 1189年)、アンジュー(在位:1151年 - 1189年)でもあった。アリエノール・ダキテーヌの2番目の夫として知られている。短マント王(Henry Curtmantle 仏:Court-manteau)とも呼ばれた。

父はフランス王国の有力貴族のアンジュー伯ジョフロワ5世、母はイングランド王ヘンリー1世の王女マティルダである。

父方と母方からの相続と自身の婚姻により広大な所領を獲得し、ピレネー山脈から南フランスおよびイングランドにまたがる、いわゆる「アンジュー帝国」を築いたが、晩年は息子たちの反乱に苦しんだ[2]
生涯
生い立ち - 若年期

1133年3月5日、メーヌル・マンアンジュー伯ジョフロワ5世と妻マティルダの間に長男として誕生した[3]。10世紀にアンジュー伯領(フランス語版)が成立して以降、歴代のアンジュー伯は婚姻と同盟を駆使してその影響力をフランス全土に拡大しようと腐心してきた[4][5]。形式上フランス国王に臣従していたが、11世紀には王権の支配は弱まり、半ば独立状態となっていた[6]

母マティルダはイングランド王ノルマンディー公ヘンリー1世(アンリ1世)の長女であり、先夫は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世であった[7]。1135年、ヘンリー1世はマティルダを次のイングランド王に定めて崩御したが、この決定にマティルダの従兄のスティーブン(ヘンリー1世の姉アデラの子)が異を唱えてイングランド王・ノルマンディー公に即位すると、両者の間で後に「無政府時代」と呼ばれる長い内戦が始まった[8][9][10]。この時、父ジョフロワ5世はノルマンディー攻撃には参戦したが、イングランドでの紛争には直接の関与を避け、マティルダと彼女の異母兄グロスター伯ロバートに任せていた[11]

ヘンリー(アンリ)は幼少期(7歳ころまで)を母マティルダと共にアンジューで過ごし、1130年代後半に母と共にノルマンディーへ移ったとされており[12]、この頃に著名な文献学者サントのピエールについて学んでいた[12][13]。1142年末、ジョフロワ5世はイングランド南西部のマティルダ派の拠点ブリストルへ9歳のアンリをグロスター伯と共に渡海させることにした[14]。アンリのイングランド渡海は、当時の貴族の家では男子を親戚の家で養育させる慣習があったことに加え、ジョフロワ5世にとってはイングランドでの戦いに参加しないことへのマティルダ派イングランド貴族たちの不満を和らげる政治的な意味合いも持っていた[14]。グロスター伯家は学問や教育に熱心なことで知られており、アンリはイングランドで約1年間を過ごし、その間グロスター伯の息子ロジャー・オブ・ウスター(英語版)と共に学んだ[14][15]。ブリストルの聖オーガスティン教会(英語版)の律修司祭たちの指導も受けており、アンリは後年に彼らを懐かしむ発言をしている[16]。1143年か1144年にアンジューへ戻ったアンリはスコラ学者コンシュのギヨーム(フランス語版、ドイツ語版)について学習を続けた[17]

1147年初頭、14歳のアンリは親族と少数の傭兵からなる部隊を率いてノルマンディーから再びイングランドに渡り、ウィルトシャーを攻撃した[18]。この遠征は失敗に終わり、傭兵たちへ給金が支払えないアンリはノルマンディーへ戻ることができなくなった[18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:306 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef