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へんりー おおかわ
ヘンリー 大川
『妻よ薔薇のやうに』(1935年)
右は千葉早智子。
本名大川 平八郎(おおかわ へいはちろう)
別名義Henry Okawa
生年月日 (1905-09-09) 1905年9月9日
没年月日 (1971-05-27) 1971年5月27日(65歳没)
出生地 日本 埼玉県草加市
死没地 日本 東京都世田谷区成城
職業俳優
ジャンル劇映画(現代劇・時代劇、サイレント映画・トーキー)
活動期間1928年 - 1971年
著名な家族女婿:小松英三郎
主な作品
『空中サーカス』
『音楽喜劇 ほろよひ人生』
『戦場にかける橋』
『地球防衛軍』
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ヘンリー大川(ヘンリー おおかわ、(1905年〈明治38年〉9月9日[1] - 1971年〈昭和46年〉5月27日)は、日本の俳優。埼玉県[1]草加市出身。本名・旧芸名は大川 平八郎(おおかわ へいはちろう)[1][2][3]。娘婿に俳優の小松英三郎がいる。通訳を行う大川(右端) 1905年、草加宿開拓者のひとりである大川図書の子孫、大川家13代頭首である大川十三代の三男として産まれる。 草加尋常小学校を卒業後、郁文館中学5年進級の際に@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「操行丙」で落第してしまったため[要出典]、アメリカで実業家になるために1923年に渡米[1]。ペンパル・クラブで知り合ったフロリダ大学の教授を頼って行ったゲインズヴィルで1年過ごす。翌年アトランタへ移り住んで中華料理店で1年5ヶ月間働いた後、さらにニューヨークへ移ってクラブの皿洗いのアルバイトを始める。 その後好奇心から、パラマウント映画が開設した俳優学校[注釈 1]に入学[2]。同期の俳優にはゲイリー・クーパー、チャールズ・ロジャーズ、リチャード・アーレンらがいる[2]。授業料を稼ぐために日本人が経営するペットショップに勤めるが、俳優学校はわずか1年で閉鎖してしまったため、元々の目的であったコロンビア大学経済学部へ入る。 1928年、再び俳優の道を志してハリウッドへ赴く。フォックス社でハワード・ホークスの面接を受けて曲芸飛行の練習生として契約、約6ヶ月の練習期間を経て、同監督の『空中サーカス』にスタントフライヤーとして出演[1]、ハリウッド映画デビューする。その後も『暁の偵察』、『悪魔の歎き』、『つばさの天使』などに相次いで出演するが、父危篤の報を受けて1933年に帰国。後年、このハリウッド時代に得た5万ドルを元手に大川家再興のため朝鮮に黒鉛の鉱山を開発する。 帰国後、PCLに入社[1][2]。木村荘十二監督によるPCL第1回自主制作作品『音楽喜劇 ほろよひ人生』へ主演、劇中挿入歌『恋は魔術師』も歌う。さらに成瀬巳喜男監督の初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』など、成瀬作品に多数出演。1937年、合併によって設立された東宝映画の専属俳優となる。 1943年に軍属としてフィリピンに召集されている時期にも、フィリピンが舞台の国策映画『あの旗を撃て』に出演している。終戦時には、現地司令官山下奉文が米軍へ投降する際に通訳として抜擢される。 終戦後に東宝へ復帰。成瀬作品や『地球防衛軍』などの特撮映画に出演する一方で、海外の映画会社との合作映画の製作に携わった。その他、日本劇場や東宝劇場の米国駐留軍による接収問題が生じた際には日本側の代表としてGHQとの折衝にあたり、取りまとめ交渉に尽力した。 1957年頃に芸名をヘンリー大川とし、同年デヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』で助監督を務めながら、早川雪洲、勝本圭一郎と共に軍人役で出演する。 1960年代に入ってからは出演作は減ったものの、持ち前のバイリンガルを生かしてオスマン・ユセフら日本語の堪能な外国人俳優たちと共に通訳としても活躍した[2]。『キングコングの逆襲』に出演したリンダ・ミラーは、大川は親切で頼りになったと証言している[4]。 1971年5月27日、脳内出血のため世田谷区成城の病院で死去、享年65。
来歴・人物
主な出演作品
空中サーカス(1928年 ハワード・ホークス監督)
暁の偵察(1930年 ハワード・ホークス監督)
つばさの天使(1933年 ウィリアム・A・ウェルマン監督)
悪魔の歎き(パラマウント映画作品、詳細不明)
音楽喜劇 ほろよひ人生(1933年 木村荘十二監督):アサオ 役