ヘンリー・小谷
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ヘンリー・小谷
『日本映画事業総覧 昭和五年版』
本名小谷倉市
生年月日 (1887-04-25) 1887年4月25日
没年月日 (1972-04-08) 1972年4月8日(84歳没)
出生地 日本広島県安芸郡仁保島村(現・広島市南区
死没地 日本東京都
職業映画監督映画カメラマン俳優
著名な家族小谷映一

 受賞
毎日映画コンクール
特別賞
1960年

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ヘンリー・小谷(ヘンリー・こたに、1887年4月25日 - 1972年4月8日)は、大正・昭和期の映画監督。本名・小谷倉市。日本映画初期に、アメリカから最新技術を紹介、実践し、開拓者・指導者としても大きな役割を果たした[1][2][3][4][5][6]
略歴・人物
生い立ち

広島県仁保島村(現広島市南区仁保町)生まれ[7][8][9]。幼少時に両親とアメリカへ渡り、ハワイサンフランシスコと移住[10]。ハイスクール卒業後、オークランド・ヒルズ・カレッジに入るが1911年中退。ハイスクール在学中の1907年からサンフランシスコのアルカザー劇場で働き、1913年トーマス・H・インスの撮影所に入り、俳優として『タイフーン(英語版)』(1914年)などの映画に出演した[11]。ここには青木鶴子トーマス・栗原早川雪洲もいた[3]1917年、フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー(英語版)(後のパラマウント・ピクチャーズ)に移りカメラマンとなる[12]。カメラマンになる前は葡萄ちぎりの職に付いていたと書かれた文献もある[13]。同年、セシル・B・デミル監督『ヂャンヌ・ダーク』でアルビン・ワイコフの撮影助手、1923年の『十誡』でも撮影助手を務め、史上初めて斜めパンをやったデミルの仕事でヘンリーが、右手でクランク、左手でパニング、残るは三脚の一本に脚をかけてキャメラを持ち上げたという[14]1918年のジョージ・メルフォード監督『隠された真珠』でポール・ケリーの撮影助手を務めたといわれる[12]。また在米中には『哀愁』や『心の旅路』などで知られる名匠・マーヴィン・ルロイジェームズ・ウォン・ハウなども指導している[1][10]。ウォン・ハウは「小谷から撮影の全てを学んだ」と話している[15]。当時のアメリカは激しい排日運動が起きていた時代。早川雪州のような俳優は、キャスティングの必要性と運があって活躍できたが、演出、撮影の人たちは組合があるため簡単には入り込めず、そこから這い上がるのは容易でなかった[4]
松竹蒲田撮影技師長

1920年松竹映画事業に乗り出し松竹キネマが創立され、アメリカより技術者を招くこととなる[16]。それに伴い、セシル・B・デミル監督や田口桜村に推薦され、松竹蒲田撮影所に撮影技師長として赴任する[1][3][17][18]。蒲田撮影所の監督や俳優を含めた全所員の給料の合計が3000円だったといわれるが[10]、ヘンリーの月俸はその半分、当時としては天文学的数字の1500円だったといわれる[2][4][9][19]。松竹は小山内薫をリーダーに映画事業に乗り出したといっても、映画の作り方を本格的に知る者は誰一人おらず、何から手を出すか、ヘンリーが来るまでは誰も分かってなかったといわれる[4]

ヘンリーが到着した同年7月19日横浜港には、白井信太郎撮影所長、小山内薫撮影総監督、田口桜村撮影部長ら、松竹の首脳陣や蒲田の俳優たちが総出で出迎える歓迎ぶりであった[10]。それだけ映画先進国アメリカに賭けた夢が大きかったのである[3]。まだ自動車が珍しい頃だが、一行は新型自動車に分乗し、大パレード東海道を一路蒲田撮影所まで向かった[10]。この日、撮影所の表門脇では賀古組の撮影が行われていたが、表門を入った車から身軽に降りてきたヘンリーが、キャメラの助手が手にしていたレフ板(リフレクター)を素早くとると、さっと脇の板塀にのぼり、両手で高くかざした。レフ板を高い位置に持っていき、反射光線をあてるという技術さえ、誰も知らなかった[9]。それだけのことで、被写体である人物は、くっきり浮びあがり、見事な画になった。レフ板も人工光線も、すでに映画製作の現場で使用されてはいた[12]。レフ板を日本人が目にしたのはこの前年のことだったが[9]、それらは十分に活用されてはおらず、それまでレフ板はステージの上か地上に立てて太陽光線を反射させ、主要対象物や背景を明るくするものと思われていた[3]。この話は広く知られ、今日、伝説とさえなっている[10]。小谷はフラットな照明が支配的だったそれまでの日本の映画製作現場に、立体的効果を持つ照明法をハリウッドからもたらした[12]

海のものとも山のものともわからぬ所内を指導[19]、早速、まだステージの無い蒲田撮影所での松竹第1回作品、川田芳子主演の『島の女』を木村錦花と共同演出し[20][21]、光線の扱いの鮮やかさとアメリカ仕込のカメラワークで新しい時代の扉を開いた[3]ハリウッド帰りのカメラマンの威勢を買って、実質的にはヘンリーの演出といわれる[1][3]。『松竹七十年史』には「大谷竹次郎社長が、何でもいいからアメリカ流に一本作るよう、ヘンリー小谷にいいつけた。ヘンリーはカメラマンだが、編集のことも演出のことも、本場仕込みだから出来ないことはない。(中略)それが世に出た松竹キネマ創立披露第一回作品となった」「大正九年十一月一日、ヘンリー小谷の作った『島の女』が、山田耕筰指揮の大交響楽団の演奏とともに、歌舞伎座に公開された」と書かれている[22]

1921年には、後の大スター栗島すみ子のデビュー作、『虞美人草』の脚色、演出、撮影を一手に引き受け、最新技術を駆使して、周りのスタッフを驚かせた[23]。特に、オープンセットでの項羽劉邦の合戦シーンには多くの人数を動員して迫力あるシーンを撮り、日本最初のスペクタクルシーンを実現した[24][25]。さらに本作品に於いて栗島すみ子という初めてのスター女優を誕生させた[10][12][25]。栗島自体が典型的な日本の女性美を備えていたこともあるが、栗島のクローズアップの映像は、それまでの日本映画にないシャープな陰影と艶のある画面となり、これにはヘンリーの技量があずかって大きかった[3]。それまでの映画のヒロインは、舞台劇出身の男性が不自然な女装をするか、新劇オペラ出身の女優で、いずれも既成舞台人としての型があって、自然に流出するナイーブな演技を見せることはなかったが、栗島には幸いそうした舞台的な臭みもクセもなく、ヘンリーによってアメリカ的な表情摘出を指導されたため、映画劇の求める演技の純粋性を発揮した。また女優の化粧もヘンリーによって改革されたといわれる[3]。ヘンリーはハリウッドから輸入したマックスファクター製のドーランを沢山持っていて、栗島にも直接化粧を施した[3][12][25]。顔が白いと着物や背景との光の反射比が強くなり、明るい側の顔のディテールが潰れてのっぺらぼうになる。このため茶褐色肌色)のドーランを塗る。化粧といえば舞台での白塗りに馴れていた女優にとって、茶褐色の化粧はどこか薄汚れて見え、当初戸惑いがあった。映画を観て、初めて表情のディテールがくっきり再現しているのを確め、その効果を知った。以後、撮影にはドーランが広まった[3]。ヘンリーのドーラン化粧とライティングによって、明眸の美女栗島すみ子はスクリーンのアイドルになった[3]。『松竹七十年史』には「この映画の収穫は、日本映画のスターシステムを確立させた第一人者として、その後の松竹映画の大衆的人気と、興行的引力を与えるに役立った」と称えられ[24][25]、松竹の商品映画として一つの金字塔となった作品であった[1][26]。栗島の出現は日本の映画劇に非常に明るさと美しさと若さをもたらして、日本映画発展の有力な鍵となった[25][27][28]。本作と小山内薫が指揮した『路上の霊魂』の二本で、蒲田撮影所開設10ヶ月にして、やっと映画らしいものに到達した[10]


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