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ヘンリー・リー3世
Henry Lee III
ウィリム・エドワード・ウェスト
ヘンリー・リー(英: Henry Lee III)またはライトホース・ハリー(英: Light Horse Harry, 1756年1月29日 - 1818年3月25日)は、アメリカ独立戦争中の大陸軍騎兵士官である。バージニア州知事とアメリカ合衆国下院議員を務めた。アメリカ合衆国建国の父の一人に上げられ、また南北戦争で有名になったロバート・E・リーの父である。リー家の紋章
前半生(英語版)(1730年 - 1787年、"Leesylvania")、母親はルーシー・グリムズ(1734年 - 1792年、the "Lowland Beauty")である。リー自身はヘンリー・リー3世である。父親の従兄弟には大陸会議の第6代議長リチャード・ヘンリー・リーがいる。母親の姪はバージニア邦知事トマス・ネルソン・ジュニアの妻である。リーの曾祖母メアリ・ブランドは合衆国大統領トマス・ジェファーソンの大叔母である。リーの祖先を辿れば、イングランド王ジョン(在位:1199年 - 1216年)、エドワード1世(在位:1272年 - 1307年)、エドワード2世(在位:1307年 - 1327年)、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ(在位:1210年 ? 1212年)、カスティーリャ王ペドロ1世(在位:1350年 - 1366年、1367年 - 1369年)に行き着く[1][2]。
リーは法律家になることを目指し、1773年にニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)を卒業した。しかし、その後直ぐにアメリカ独立戦争が勃発し、リーは革命軍の士官になった。 1776年、リーは大陸軍第1軽装竜騎兵隊に所属するバージニア竜騎兵隊の大尉に昇進した。1778年には少佐となり、小さな非正規兵隊の指揮を任された。リーは軽装騎兵隊の指揮官として大変な評判を取ることになった。 前哨基地におけるリーの働きぶりから「ライトホース・ハリー」の渾名も貰うことになった。リーは1779年8月19日にニュージャージーのパウルスフックの戦いで158名を捕虜に取るという大手柄を立て、この功績で金メダルを貰った。独立戦争全体で将軍以外の士官にこのメダルを与えられたのはリー一人である。 リーは中佐に昇進し、選りすぐりの竜騎兵を集めた中隊(リー軍団と呼ばれた)を率いて南部戦線を転戦した。この戦線でリーは勝ち戦でも負け戦でも目立った働きをした。例えばキャムデンの戦い、ギルフォード郡庁舎の戦い、ユートースプリングスの戦いである。リーはヨークタウンの戦いにおけるチャールズ・コーンウォリスの降伏にも立ち会い、その後健康上の理由で退役した。 評判の悪いウィスキー税反乱の時、リーは13,000名の民兵を率い反乱を鎮めた。しかし、この指揮は実際よりも紙の上のものであり、ジョージ・ワシントンとアレクサンダー・ハミルトンの二人が同行していた。 1782年4月8日から13日、ストラットフォード・ホールで、リーは又従妹で「神聖なるマチルダ」と言われていたマチルダ・ルドウェル・リー(1766年 - 1790年)と結婚した。マチルダはフィリップ・ルドウェル・リー・シニア(1727年 - 1775年)とエリザベス・ステップトー(1743年 - 1789年)夫妻の娘であった[3][4]。
軍歴
結婚、家庭バージニア州アレクサンドリアのリーの家