ヘンリー・リー・ルーカス
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ヘンリー・リー・ルーカスHenry Lee Lucas
個人情報
本名Henry Lee Lucas
別名The Confession Killer
生誕 (1936-08-23)
1936年8月23日
アメリカ合衆国ヴァージニア州モンゴメリー郡ブラックスバーグ
死没2001年3月12日(2001-03-12)(64歳)
アメリカ合衆国テキサス州ハンツヴィル
死因心不全
埋葬Captain Joe Byrd Cemetery
殺人
犠牲者数3件確定、8件不確定。本人は数百件を超える殺人を自供[1]
犯行期間1960年?1983年
アメリカ合衆国
ミシガン州
テキサス州
逮捕日1983年6月11日
司法上処分
有罪判決殺人罪
判決死刑(のちに終身刑に減刑)
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ヘンリー・リー・ルーカス(Henry Lee Lucas, 1936年8月23日 - 2001年3月12日)は、アメリカ合衆国の殺人犯。犯行期間は1960年から1983年にかけて続いた。テキサス・レインジャー(Texas Ranger, テキサス州の公安局に属する法執行官)やその他の法執行官たちに対し、100件を超える殺人を自供したことでその名を知られるようになる。

1979年にテキサス州ジョージタウンにて遺体で発見された、デボラ・ルイーズ・ジャクソン(Debra Louise Jackson)の殺害を告白したことで死刑判決を受けるが、1998年、当時テキサス州知事を務めていたジョージ・ウォーカー・ブッシュ(George Walker Bush)による命令で終身刑に減刑された[2]。デボラ・ジャクソンが殺されたとき、ルーカスはフロリダ州ジャクソンヴィルにいた[3][4]。ルーカスはデボラを絞め殺して犯した、と告白したが、彼女の殺害、性的暴行、遺体の処分にルーカスが関与したことを示す物理的な証拠は無かった[5][6][7]

『ダラス・タイムス=ヘラルド』(The Dallas Times-Herald)が行った調査で、ルーカスによる殺人の告白は「信用に値しないもの」となり、テキサス州の検事総長が追跡調査を実施することになった。この調査の結果、ルーカスは「虚偽の自白の常習犯であり、病的な虚言癖の持ち主である」との結論を下した。のちにルーカス自身が、デボラ・ジャクソンを殺したことについて「作り話だ」として自白を撤回している。

ルーカスにより、刑事手法の再評価と虚偽の自白に対する認識が高まった。捜査官たちは彼に「自白」させることにより、ささやかな特権(ステーキのディナー、ミルクシェイク牛乳アイスクリーム香味料を加えた飲み物〉、テレビ視聴)を与えたが、それがルーカスによるさらなる自白を促すとは考えなかった。また、捜査官はルーカスに自身の記憶を呼び起こさせるために事件の資料を見せ、事件の加害者である本人しか知り得ない事実を知ろうとした。

2001年3月、欝血性心不全(Congestive Heart Failure)で亡くなった。
生い立ち

1936年8月23日、ヘンリー・リー・ルーカスはヴァージニア州ブラックスバーグにて、丸太小屋の中で産み落とされた[8]。10歳の時、兄弟との喧嘩で左目の視力を失った[9]。幼年時代のヘンリーについて、のちに彼の友人の1人が、びっくりするほど奇矯な言動で人の注意を引こうとしていた、と語っている。ヘンリーの母・ヴァイオラ(Viola Lucas)は売春婦であり、息子に対して自分が客と性行為に及んでいる場面を見せ付け、息子に女装させた。伝えられるところでは、ヴァイオラはヘンリーに対し、男女問わずポン引き行為ができるようにしたともいう[9][10][11][8][12]。ヘンリーが通っていた学校の担任はヘンリーの女装について苦情を述べ、最終的には裁判所からの命令で女装を止めさせるに至った[12]

1949年12月、ヘンリーの父、アンダーソン・ルーカス(Anderson Lucas)は、ひどい吹雪の中酔っ払った状態で家に帰る途中に倒れ、低体温症で死亡した。ヘンリーは小学校6年生のときに学校を辞め、家から逃げ出し、ヴァージニア州の周辺をあてどもなく放浪していた。

1951年、ヘンリーは、ローラ・バーンズリー(Laura Burnsley)という17歳の少女を絞め殺した、と述べたが、のちの彼の告白と同様に、この殺人は嘘であるとして撤回している[13][14]

1954年6月10日、ヘンリーはヴァージニア州リッチモンドの周辺で12件以上の強盗を働いたとして有罪判決を受け、懲役4年の刑を宣告された。1957年に脱獄するもその3日後に再逮捕され、1959年9月2日に釈放された[13][14]

1959年の終わりごろ、ヘンリーはミシガン州テカムサ(Tecumseh)にて、腹違いの姉・オパール(Opal)と暮らしていた。ヘンリーは獄中にいた頃にできた文通相手と結婚するつもりであった。この年のクリスマス、母ヴァイオラが息子の前に現れた。ヴァイオラは息子の結婚を認めず、ブラックスバーグに戻るよう強く要求した。ヘンリーはこれを拒み、この結婚についてたびたび言い争った[8]
母の殺害

1960年1月11日、ヘンリーは母ヴァイオラを殺害した。年老いた母の世話をするために家に帰るべきかどうかについて話し合っている最中の出来事であった。ヘンリーによれば、ヴァイオラがほうきで頭を殴ってきた時、彼女の首を刃物で刺し[8]その場から逃亡した。のちにヘンリーは以下のように供述した。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}俺が覚えているのは、おふくろの首のすぐそばに平手打ちを叩き込んだんだが、その直後におふくろが倒れ込んだのを見て、身体を掴もうとしたんだ。だが、おふくろは床に倒れた。俺がおふくろの元へ戻ったとき、彼女は死んでいたんだ。そのあとだよ。俺が自分の手にナイフを握っていて、おふくろの首が切り裂かれていたことに気付いたのは[8]

ヴァイオラが血まみれの状態で倒れているのを発見したオパールは救急車を呼んだが、すでに手遅れであった。警察の公式報告によれば、ヴァイオラは攻撃を受けたことによる心臓発作が原因で死亡したという。ヘンリーは、ミシガン州発行の逮捕令状に基づき、オハイオ州にて逮捕された。ヘンリーは「母を殺したのは自衛のためだ」と主張するも却下され、第二級殺人(Second Degree Murder, 情状酌量の余地がある、と判断された殺人)の罪で20?40年の禁固刑を宣告された。刑務所で10年間服役したのち、ヘンリーは1970年6月に釈放となった。過密状態と化していた刑務所の緩和が釈放の理由であった[8]


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