ヘンリー・ブラッグ
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Sir
William Henry Bragg
ウィリアム・ヘンリー・ブラッグ
ウィリアム・ヘンリー・ブラッグ(1915)
生誕 (1862-07-02) 1862年7月2日
カンブリア州ウィグトン
死没 (1942-03-10) 1942年3月10日(79歳没)
ロンドン
国籍イギリス
研究分野物理学
研究機関アデレード大学
リーズ大学
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
英国王立科学研究所
出身校ケンブリッジ大学
指導教員ジョゼフ・ジョン・トムソン
博士課程
指導学生ローレンス・ブラッグ
キャスリーン・ロンズデール
ウィリアム・アストベリー
主な業績X線回折
主な受賞歴ノーベル物理学賞(1915年)
補足
ローレンス・ブラッグの父であり、親子でノーベル賞を受賞している。
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1915年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:X線による結晶構造解析に関する研究

サー・ウィリアム・ヘンリー・ブラッグ(Sir William Henry Bragg、1862年7月2日 - 1942年3月12日)は、イギリスの物理学者1915年に「X線による結晶構造解析に関する研究」により息子のウィリアム・ローレンス・ブラッグと共にノーベル物理学賞を受賞した。
生涯
生い立ち

1862年、カンバーランドのウィグトン近郊のウェストワードで生まれる。父は商船幹部船員で農場も経営しており、母は牧師の娘である。ブラッグが7歳のとき母が亡くなり、レスターシャーのマーケット・ハーバラに住む叔父に育てられることになった。マン島のキング・ウィリアムズ・カレッジ(英語版)で学び、奨学金を獲得してケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学。特に数学で優秀な成績を収めた[1][2][3]
アデレード大学

1885年(23歳)のとき、アデレード大学の数学と実験物理学の教授という職を提供され[4]、1886年初めごろから働き始めた。数学者としては優秀だったが、このころのブラッグには物理学の知識はあまりなく、応用数学との関連で得た知識ぐらいしかなかった。アデレードで物理学を受講する者は百人ほどしかおらず、理学部に所属する学生はそのうちの一握りだった。ブラッグは教育設備の不足を補うため、自ら器具製作者に弟子入りした。ブラッグは講師としても優秀だった。彼は学生の自治会結成を促進し、科学系の講師にも無料で彼の講義を受けさせた[2][3]

ブラッグは物理学にも興味を持つようになり、特に電磁気学の分野に興味を持っていった。1895年、ニュージーランドからケンブリッジに向かう途中のアーネスト・ラザフォードがブラッグを訪問している。その後ラザフォードとは生涯の親友となった。彼の経歴の転換点となったのは、1904年にニュージーランドのダニーデンに本部のあるオーストラレーシア科学振興協会(現ANZAAS)のセクションAの代表に選ばれたことで、気体のイオン化についての理論を発展させたことが評価されてのことだった[3]。その後3年間でさらに研究成果を上げ[3]、ロンドンの王立協会のフェローに選ばれることになった。その論文はブラッグの最初の著書 Studies in Radioactivity (1912) の元になっている。1904年、ブラッグは実験用の臭化ラジウムを入手し、1904年12月の Philosophical Magazine 誌にラジウムの放射線に関する論文を発表した。また同年、学生の Richard Kleeman と連名で On the Ionization Curves of Radium(ラジウムのイオン化曲線について)という論文も発表している[2][3]

1908年末、ブラッグはイングランドに帰国した。オーストラリアでの23年間で、アデレード大学の学生数はほぼ4倍に増えており、ブラッグは理学部の発展に大いに貢献した[2]

アデレードではテニスとゴルフを趣味とし、ノース・アデレード地区の最初の入植者の1人でもあった。また、大学のラクロス部の創設に関わり、南オーストラリア州にラクロスを紹介する役目を担った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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