ヘンリー・セリック
Henry Selick
生年月日 (1952-11-30) 1952年11月30日(71歳)
出生地 アメリカ合衆国 ニュージャージー州グレン・リッジ
職業映画監督
主な作品
『ジャイアント・ピーチ』
『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』
『コララインとボタンの魔女』
受賞
アヌシー国際アニメーション映画祭
長編グランプリ
1996年『ジャイアント・ピーチ』
2009年『コララインとボタンの魔女』
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ヘンリー・セリック(Henry Selick, 1952年11月30日 - )は、アメリカのストップモーション・アニメーション監督、脚本家、プロデューサーである。
代表作に、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』、『ジャイアント・ピーチ』、『コララインとボタンの魔女』など。 ニュージャージー州グレンリッジにて、メラニーとチャールズ M・セリック夫妻の間に生まれ[1][2]、ラムソンで育つ[3]。3歳から12歳までを殆ど絵を描いて過ごした。アニメーションへの興味は、幼少の頃に見たドイツの影絵アニメーション作家ロッテ・ライニガーの『アクメッド王子の冒険』と、レイ・ハリーハウゼンがストップモーション・アニメを手がけた『シンバッド七回目の航海』からだった。 ラトガース大学では科学を専攻し、シラキュース大学とセントラル・セント・マーチンズで芸術を学んだ後、カリフォルニア芸術大学でアニメーションを学ぶ。カルフォルニア芸大在学中には、制作した2本の学生映画、『Phases』と『Tube Tales』が学生アカデミー賞 卒業後、セリックは動画アニメーターとしてウォルト・ディズニー・ピクチャーズに就職し、グレン・キーンの元で修行を積み、『ピートとドラゴン』、『ロバと少年』、『きつねと猟犬』などの作品に参加しアニメーターとしての技術を磨いた。ディズニー時代の同僚には、ティム・バートン、リック・ハインリクス、ブラッド・バード、ジョン・マスカーらがいる。後に彼は、ディズニー設立当初からの大御所アニメーターナイン・オールドメンの一人であるエリック・ラーソンから、画力の向上と、ストーリーテリングの技術について大いに学んだと語っている。 国立芸術基金からの助成金を得て制作した短編映画『Seepage』でセリックは賞に輝き、その後の数年をベイエリアを拠点にフリーランスとして活動し、製菓老舗ピルズベリー社
経歴
幼少期
ディズニー時代
フリーランス時代
MTVの映像コンテストで絶賛され賞を獲得した『Slow Bob in the Lower Dimensions』というアニメシリーズのための6分間のパイロット版を、大学とディズニー時代の知人であり映画監督のティム・バートンに注目されたことから、セリックは1993年、バートンの製作の元『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』で長編映画監督デビューに至る。この作品は、アメリカの大手映画スタジオが初めて手掛けた長編ストップモーション映画でもある。
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』は封切りと同時に絶賛され、カルト映画として不動の地位を確立したのみならず、第66回アカデミー賞において視覚効果賞にノミネートされ、『ライオン・キング』を抑え国際アニメーション映画協会の賞に輝いた。
1996年、セリックは次なる長編映画『ジャイアント・ピーチ』を発表。ロアルド・ダール原作の児童文学を、実写とストップモーションを融合して描いたこの意欲作は、タイム誌のリチャード・シッケルら批評家から「原作以上」との賛辞[4]とともに歓迎され、1997年のアヌシー国際アニメーション映画祭で最高賞を受賞した。
しかし2001年、続く長編第三作『モンキーボーン』では、同様に実写とアニメの融合を試みるも、興行・評価ともに惨敗を喫することとなった。
2004年にウェス・アンダーソン監督の映画『ライフ・アクアティック』におけるアニメーション・パートを手がけた後、セリックはオレゴン州ポートランドを拠点とするアニメーション・スタジオ、ライカに監督及びスーパーバイザーとして参加。セリックはそこで、キャンドルウィック社の児童文学に基づき、初のCG作品となる短編『Moongirl
』を監督し、賞に輝く。2009年、ライカでの初長編となった『コララインとボタンの魔女』は、数々の文学賞に輝くイギリスのSF・ファンタジー作家ニール・ゲイマンの原作による、ストップモーションを用いたアニメーション映画としては史上初[5]となる3D映画として公開された。批評家からも概ね好評を博し、第82回アカデミー賞、第63回英国アカデミー賞、第67回ゴールデングローブ賞の長編アニメ映画部門の候補となった。