ヘンリー・スチムソン
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アメリカ合衆国政治家ヘンリー・スティムソンHenry Stimson
1929年8月7日
生年月日 (1867-09-21) 1867年9月21日
出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
没年月日 (1950-10-20) 1950年10月20日(83歳没)
死没地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ウェスト・ヒルズ
出身校イェール大学
ハーバード大学
所属政党共和党
配偶者メイベル・ウェリントン・ホワイト(1893年7月 - )
アメリカ合衆国
第45・54代陸軍長官
在任期間1911年5月22日 - 1913年3月4日
1940年7月10日 - 1945年9月21日
大統領ウィリアム・タフト
フランクリン・ルーズベルト
ハリー・S・トルーマン
アメリカ合衆国
第46代国務長官
在任期間1929年3月28日 - 1933年3月4日
大統領ハーバート・フーヴァー
アメリカ領フィリピン
第8代総督
在任期間1927年12月27日 - 1929年2月23日
大統領カルビン・クーリッジ
 ニューヨーク州
南部地区連邦検事
在任期間1906年1月 - 1909年4月
州知事フランク・ヒギンズ
チャーズル・ヒューズ
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ヘンリー・ルイス・スティムソン(英語: Henry Lewis Stimson、1867年9月21日 - 1950年10月20日)は、アメリカ合衆国政治家陸軍長官フィリピン総督国務長官を歴任した。保守的な共和党員であり、ニューヨーク市弁護士でもあった。
概説

スティムソンは、ナチス党政権下のドイツに対する攻撃的な姿勢のために、陸軍とその一部である陸軍航空軍の責任者に選ばれ、第二次世界大戦期における民間人出身の陸軍長官として最もよく知られている。1200万人の陸軍兵と航空兵の動員と訓練、国家工業生産の30パーセントの物資の購買と戦場への輸送、日系人の強制収容の推進、原子爆弾の製造と使用の決断を管理した。
経歴
若年期

1867年9月21日、ニューヨーク州ニューヨークにて共和党の政治に長い間関与していた裕福な家庭に誕生した。マサチューセッツ州アンドーヴァーのフィリップス・アカデミーイェール大学(1888年に卒業した。)で教育を受けた。そこで後の多くの人脈を与えた秘密結社スカル・アンド・ボーンズ」に入会した。

1890年ハーヴァード・ロースクールを卒業した。翌1891年にはウォール街の高名な法律事務所「ルート=クラーク事務所」に就職し、2年後に共同経営者となった。後に陸軍長官と国務長官となるエリフ・ルートは、スティムソンにとっての理想像となり、大いに影響を与えた。

1906年1月、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトによってニューヨーク南地区の連邦検事に任命された。ここでスティムソンは反トラスト法違反訴訟の検察官を務め、優れた成績を残した。その後は1910年11月にニューヨーク州知事の共和党候補として立候補したが、落選した。
政界入り

1911年5月、アメリカ大統領ウィリアム・タフトによって陸軍長官に任命され、1913年3月まで在任した。スティムソンはエリフ・ルートが始めた陸軍再編成を引き継ぎ、第一次世界大戦が広範に拡大する前に陸軍の効率を改善した。彼は戦災に見舞われたベルギーの人々の援助を主導した。アメリカ合衆国参戦後の1918年8月に大佐に昇進し、フランス砲兵士官を務めた。

1927年、スティムソンは当時の大統領カルビン・クーリッジによって民間の交渉のためにニカラグアに派遣され、アメリカ大使や海兵隊司令官と密接に連携して内政干渉した。スティムソンは内戦の両軍の武装解除・ディアスの内閣参加・中立の警察隊を編成し、アメリカ士官の指揮下に置くこと・1928年の選挙をアメリカの監督下で実施することを要求し、「要求に応じなければ干戈に訴える」と脅迫したといわれている。スティムソンはニカラグア人が「独立に付随する責任に適合しておらず、支持される自治にはさらに適合していない」と書いた。1927年12月から1929年2月までレオナード・ウッド将軍の後任としてフィリピン総督に任命された後、スティムソンは同じ理由でフィリピン人の独立に反対した。1920年代に「アメリカは国際社会のエリートであるから、白人の責務を果たすために、アメリカの一流企業を世界のすみずみまで進出させるべきであり、必要であれば政治干渉も行うべきである。そうすれば早晩、劣等民族はアメリカの基準を受け入れるだろう」と考えていたという[1]

1929年3月から1933年3月まで、スティムソンはフーヴァー政権において国務長官として仕えた。1929年には「紳士は互いの郵便を盗み見ない」と語り、国務省の暗号解読局MI-8を閉鎖した。しかし、後年にスティムソンはこの姿勢を変え、暗号の解読を重視するようになった。

1930年、スティムソンはロンドン海軍軍縮会議のアメリカ代表団の団長を務め、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルド日本の全権若槻禮次郎などとの交渉の末、ロンドン海軍軍縮条約締結にこぎつけた。会議における若槻の「生命と名誉のごときは、これを顧みない」姿勢に感動したため、日本の要求に譲歩したとの批判を受けたが、卓越した弁護士としての技量により条約は批准された。翌年にジュネーヴ軍縮会議のアメリカ代表団の団長となった。

1932年、アメリカ合衆国は日本の満州占領に対して「スティムソン・ドクトリン」を公表した。内容は日本の満州への軍事行動を非難するものであった。すなわちケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)に違反する如何なる行動をも認めないと共に、中華民国への軍事行動によって生じた条約や中国大陸における勢力圏の変化を承認することを拒否するものであった。同時にスティムソン・ドクトリンはアメリカの中国における条約上の権利・権益を侵害するような取り決めを認めず、中国政策における「門戸開放政策」の方針を確認するものでもあった。

フーヴァー政権の終焉と共に下野して弁護士に戻ってからも、スティムソンは日本ドイツイタリアへの反対論の率直な提唱者だった。また第二次エチオピア戦争スペイン内戦ミュンヘン会談ポーランド侵攻に至るまで静観し続けたイギリスとフランスの「5年間に及ぶ愚行」を批判し[2]、「アメリカは恥ずべき傍観者になってはいけない」と表明していた[3]


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