ヘンリー・スクールクラフト
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ヘンリー・ロウ・スクールクラフト
ヘンリー・スクールクラフトの写真(1855年)
生誕Henry Rowe Schoolcraft
(1793-03-28) 1793年3月28日
アメリカ合衆国、ニューヨーク州、Guilderland
死没1864年12月10日(1864-12-10)(71歳)
国籍アメリカ合衆国
配偶者ジェーン・ジョンストン(英語版)
メアリー・ハワード(英語版)
署名
プロジェクト:人物伝
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ヘンリー・ロウ・スクールクラフト(Henry Rowe Schoolcraft、1793年3月28日 - 1864年12月10日)は、アメリカ合衆国地理学者地質学者民族学者。1832年のミシシッピ川源流部探検や、アメリカ先住民文化の初期研究をしたことで知られる。1850年代に出版した6巻のアメリカ先住民の研究書も有名。

1822年からミシガン州でアメリカ合衆国のインディアンエージェントを務めた。そこでジェーン・ジョンストン(英語版)と結婚した。彼女は、著名なスコットランド・アイルランドの毛皮商人とオジブワの母の娘であり、母は、オジブワの首長Waubojeegの娘であった。ジェーンはスクールクラフトにオジブウェー語と自身の母方の文化について多くのことを教えた。2人には何人か子どもがおり、そのうち2人は幼少期を生き延びている。ジェーンは現在、アメリカで最初のアメリカ先住民の文学者と認識されている。

1846年、未亡人となったスクールクラフトは、Indian Tribes of the United States(アメリカのインディアン民族)として知られる大規模な研究を議会から依頼され、これは1851年から1857年まで6巻で出版された。1847年にサウスカロライナで奴隷を所有する家族出身のMary Howardと再婚した。1860年に彼女は反アンクル・トムの小屋であるベストセラー小説The Black Gauntletを発表した。
幼年期

1793年にニューヨーク州、オールバニ郡、Guilderlandで、Lawrence SchoolcraftとMargaret-Anne Barbara (旧姓 Rowe) Schoolcraftの間に生まれた。15歳でユニオン大学に入り、後にミドルベリー大学に入った。特に地質学と鉱物学に興味を持った。

父はガラス製造をしており、スクールクラフトも当初同じ業界で勉強し働いていた。1817年にこのトピックについての最初の論文Vitreologyを著した。ニューヨーク、バーモント、ニューハンプシャーのいくつかのガラス工場で働いた後、25歳の時に西部開拓の地を探検するために家業を離れた。
探検と地質学調査

11月18日から1819年2月にかけて、スクールクラフトは仲間のLevi Pettiboneとともに、ミズーリ州ポトシから現在のスプリングフィールドまで探検を行った。彼らはWhite Riverをさらに下りアーカンソーに至り、その地域の地理学地質学鉱物学の調査を行った。スクールクラフトは1819年にこの研究をA View of the Lead Mines of Missouri(ミズーリの鉛鉱山の景色)で発表した。この本の中でこの地域の鉱床の可能性を正確に特定し、ミズーリは最終的に1番に鉛を生産する州となった(フランスの入植者はこれ以前の18世紀にセントルイス郊外に鉛鉱山を開発していた)。また、ヨーロッパ系アメリカ人がオザーク高原を探検した最初の記録であるJournal of a Tour into the Interior of Missouri and Arkansawを1821年に出版した。

この探検とその結果出版された著作により、スクールクラフトは陸軍長官ジョン・カルフーンの目に留まり、彼を「勤勉と野心、飽くなき好奇心を持った人物」と称した[1]。カルフーンはミシガン準州知事ルイス・カスにスクールクラフトを推薦し、カスが率いスペリオル湖の原生地域とミシシッピ川以西の土地を探検する探検隊の一員とした。1820年春からスクールクラフトはルイス・カスの探検隊の地質学者として活動した。デトロイトを起点に、ヒューロン湖スペリオル湖に沿ってミシシッピ川を西へ進み、川を下り現在のアイオワへ行き、ミシガン湖の湖岸を辿りデトロイトに戻ってくるという約2,000マイル (3,200 km)の旅を行った。

この探検はミシシッピ川の水源を確認し、アメリカとブリティッシュ・カナダの間の未確定の境界の問題を解決することを目的としていた。探検隊は上流に進み、今日のミネソタ州にあるアッパーレッドシーダー湖に着いた。水位が低く、それ以上上流へ行くことは不可能であったため、この湖を川の源流とし、カスにちなんで名前を変更した(しかし、スクールクラフトは、水位が高い年の早い時期にはもっと上流までカヌーで行くことができることを地元の人々が探検隊に教えていたことを記している)。スクールクラフトの探検の報告は1821年に出版されたA Narrative Journal of Travels Through the Northwestern Regions...to the Sources of the Mississippi Riverにある。

1821年、イリノイ、インディアナ、オハイオを旅する政府の探検隊の一員となった。1832年、ミシシッピ川の源流の第二次探検隊を率いた。1820年にした探検よりも1か月早く到着し、水位が高いのを利用してイタスカ湖まで行くことができた。
結婚と家族

スクールクラフトが最初の妻ジェーン・ジョンストンと出会ったのは、1822年にアメリカで最初のインディアンエージェントとして、ミシガン州スーセントマリーに赴任した直後であった。その2年前に政府はFort Bradyを建設し、米英戦争後の新たなイギリスの脅威を防ぐために公式の存在を確立しようとしていた。政府は、オジブワによるイギリス煽動を確実に防ごうとしていた。

ジェーン・ジョンストンは著名なスコットランド・アイルランドの毛皮商人John Johnstonと、Ozhaguscodaywayquay (Susan Johnston)の長女であった。Susanはオジブワの首長Waubojeegとその妻の娘であった。Johnstons家はどちらも高い地位があり、8人の子どもをもうけ、教養ある裕福な家族はその地域でよく知られた存在であった[2]

ジェーンはBamewawagezhikaquay(空を駆け抜ける星の音の女)という名前でも知られた。スクールクラフトと共有した彼女のオジブワの言語と文化に関する知識は、ロングフェローの叙事詩『ハイアワサの歌』の原典の一部を形成した[3]


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