ヘンリー・クロムウェル
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ヘンリー・クロムウェルHenry Cromwell

生年月日 (1628-01-20) 1628年1月20日
出生地 イングランドハンティンドン
没年月日1674年3月23日(1674-03-23)(46歳没)
死没地 イングランド、ウィッケン
出身校ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジ
配偶者エリザベス・ラッセル
アイルランド軍最高司令官
アイルランド総督 (ロード・デピュティ)
アイルランド総督 (ロード・レフテナント)
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ヘンリー・クロムウェル(: Henry Cromwell, 1628年1月20日 - 1674年3月23日)は、イングランドの軍人、政治家。イングランド共和国の初代護国卿オリバー・クロムウェルとエリザベス・バウチャー(英語版)の間の四男で、第2代護国卿リチャード・クロムウェルの弟。イングランド共和国時代のアイルランドにおける重要人物である。
生涯
生い立ち

1628年にハンティンドンに生まれ、フェルステッド・スクール(英語版)から、ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジに進んだ[1]清教徒革命期のイングランド内戦の終盤に父の下で従軍した。

しかし、最も活躍したのはアイルランドにおいてであり、1650年はじめには父を支援するため、軍隊を率いてアイルランドに渡り、1653年まで駐留騎兵連隊長を務めた[2]。同年のベアボーンズ議会にはアイルランド代表の一人として参加、第2代チッペナム男爵サー・フランシス・ラッセル(英語版)の娘であるエリザベス(1687年没)と結婚し、5男2女をもうけた。
アイルランド

1653年から1660年までダブリントリニティ・カレッジの学長(英語版)であった。

1654年3月、父から視察官に任じられ再びアイルランドへ赴いたヘンリーは、護国卿となった父にアイルランドの統治に関する進言をした上で、1655年7月からアイルランド軍最高司令官となり、アイルランド評議会の一員となった。形式上はアイルランド総督(ロード・デピュティ)で姉ブリジットの夫でもあるチャールズ・フリートウッドの指揮下に位置づけられていたが、同年9月に義兄がイングランドへ赴いたため、アイルランド統治の実権を掌握することとなった。背景にアイルランド政策の対立があり、フリートウッドの統治下でプロテスタントの一派であるバプテストが軍に入り込み、アイルランドを軍事支配してカトリックの先住民を西部のコノートへ強制移住させようと企てたのに対し、それに反対する軍上層部など保守派と結びついた父がヘンリーを派遣、バプテスト独裁で不満を持つ他のプロテスタント諸派をなだめ、アイルランドの統治を公平に改める必要性から取られた人事異動だった[3]

ヘンリーは、フリートウッドが採っていたアイルランド人を国外へ送り出す政策を緩和し、イングランド人移住者たちの権益にも一定の関心を払った。また、これもフリートウッドとは異なり、プロテスタント諸派の間で公平な処遇を心がけ、アイルランドにおいて人心を掌握していたことが初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドによって伝えられている。

具体的には、バプテストが企図したカトリック住民のコノートへの移住を中止、バプテストが食い込んだ中央・地方行政を地主や自治都市に返還、ニュー・イングリッシュと呼ばれるプロテスタントのイングランド系アイルランド人と協力、彼等に権力を与えつつバプテストを排除しアイルランドを軍政から民政に移行、戦乱で苦境に立つニュー・イングリッシュに配慮して課税も改めアイルランドの立て直しを図った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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