Henry Garnet
ガーネットの肖像画。彼が指を差しているのは、血の跡が彼の姿になっていたという処刑場に残っていた藁。
生誕1555年7月
イングランドのダービーシャーのヒーナー
ヘンリー・ガーネット(Henry Garnet、1555年7月 - 1606年5月3日)は、イングランドのイエズス会の神父。カトリックが弾圧されていた当時のイングランドにおいて潜伏生活を送りながらカトリックの布教活動を行い、同地で活動するイエズス会士たちの取りまとめ役であった。1605年の火薬陰謀事件に関与した罪で大逆罪により処刑されたことで知られる。
イングランドのダービーシャーのヒーナー(英語版)出身で、ノッティンガムで教育を受けた後、ウィンチェスター・カレッジで学び、1571年にロンドンに移って出版社で働いた。この頃、法律学に興味を持ったことを公言していたが1575年には大陸に渡って神学を学ぶと同時にイエズス会に入り、1582年頃にはローマで叙階された。イエズス会総長クラウディオ・アックアヴィーヴァ(英語版)から自身の後継者と目されるほどであったが、1586年にイエズス会の任務としてカトリック弾圧が激しい故郷イングランドに潜入することになり、故国に戻った。
着任後すぐに、イングランドでのイエズス会士たちの取りまとめ役であったウィリアム・ウェストン(英語版)神父が当局に捕まったために、その後を継ぐことになり、指導的立場となる。1588年末まで続いた秘密印刷所の設立や、1594年のウィズビーチ城(英語版)の司祭と世俗司祭(英語版)の間で起きた紛争の解決などを行った。穏健派のガーネットはイングランドのカトリック教徒らが直面している問題に対して武力反乱などの解決方法を否定し、例えば2人のカトリックの司祭が企てた1603年のバイ陰謀事件においては、この計画の存在をカトリック側から公表することを認め、未遂に終わらせた。
1603年にイングランド国王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人である過激派のロバート・ケイツビーは貴族院(ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式にて、議場を大量の火薬をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方(英語版)で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。ケイツビーは潜伏生活を送るイエズス会の神父たちとも親しく、決行目前となった1605年夏にはガーネットも3回彼と会話する機会を得た。ケイツビーがガーネットに直接計画を打ち明けることはなかったが、少なくともガーネットは同年7月24日に配下のオズワルド・テシモンド神父より、彼が国王の暗殺計画を企図していることを知らされていた。しかし、これをテシモンドが知った経緯を告解(ゆるしの秘跡)と捉え、ガーネットは懺悔室の守秘義務によってそれを口外すべきではないと考えた。そのため当局に通報することはおろか、ケイツビーに直接問いただすこともできず、ローマの上役たちを通して法王からイングランドのカトリック教徒が武力反乱を起こさないよう警告する布告を出すことを求め、間接的な解決を企図した。
しかし、ケイツビーは計画を諦めることなく着々と準備を進めており、決行日前日の1605年11月4日深夜に陰謀は露見した。ガーネットらイエズス会は関わっていなかったにもかかわらず、国王秘書長官ロバート・セシルらイングランド政府はこれをイエズス会の陰謀と見なし、後の裁判ではガーネット、ジョン・ジェラード、オズワルド・テシモンドら神父たちを、ケイツビーら実行犯らより先に名前を読み上げた。ガーネットはすぐに身を隠したものの、翌1606年1月27日にエドワード・オールドコーン、ニコラス・オーウェンらと共に潜伏先で発見され、逮捕された。
ロンドンに身柄を移されたガーネットは最初はゲートハウス監獄(英語版)に、続いてロンドン塔に収監された。収監中はセシル以下、ジョン・ポパム(英語版)やエドワード・コークらで構成される枢密院で取り調べを受け、また同じく収監されたオールドコーンとの会話の盗聴や、友人アン・ヴォークスとの手紙の傍受も受けていた。1606年3月28日の裁判においては事前に計画を知りながら当局に通報しなかったことを非難され、大逆罪で首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処されることが宣告された。その後、同年5月3日にセント・ポール教会の敷地内にて処刑された。 1555年7月頃、ダービーシャーのヒーナー
前半生
イエズス会士となるガーネットのローマ時代の上司であるクラウディオ・アックアヴィーヴァ(英語版)
ガーネットはニュー・カレッジには進学せず、1571年末、ウィンチェスターからロンドンに向かった[1]。そこでは法律関係の出版者リチャード・トッテル(英語版)のもとで、校正・添削の仕事を行っていた[2]。この頃、後に火薬陰謀事件の主席判事を務めることになるジョン・ポパム(英語版)とよく食事をした。ガーネットは彼に法律学への興味を公言していたが、1575年にはイエズス会に入るためにジャイルズ・ギャロップとともにポルトガルに向けて出発した[1]。
2人はローマに渡り、1575年9月11日、聖アンドレア・デッレ・ヴァッレ教会(英語版)に受け入れられた[1]。ガーネットは、神学者のロベール・ベラルミン神父のもとで学んだ[3]。クリストファー・クラヴィウスとロベルト・ベラルミーノの2人の教授は、彼の能力を高く評価していた。1582年頃に叙階されたガーネットは、ヘブライ語の教授として[2]ローマに滞在し、形而上学や数学についても講義を行った。しかし、1584年5月、イングランドのイエズス会管区長ウィリアム・ウェストン(英語版)の嘆願を受けてか[4]、ロバート・パーソンズ(英語版)神父が彼をイングランドに派遣するよう要請したため、彼の学問的なキャリアは短縮されることとなった。ガーネットを自分の後継者と見込んでいた総長のクラウディオ・アックアヴィーヴァ(英語版)は、この要請を拒否し、彼はイングランドでの生活よりも「静かな生活」に適していると考えていた。しかし、1586年5月2日に出発を許可し、ガーネットは旅の上官に任命され、ロバート・サウスウェル(英語版)とともに5月8日にカレーに向けて出発した。彼は1586年7月初めにフォークストン(英語版)の近くに上陸した[1]。 ガーネット、サウスウェル、ウェストンの3人は、ロンドンの宿屋でイエズス会のイングランド担当上長ウィリアム・ウェストンと会った後、バッキンガムシャーのマーロウ
イングランドでの潜伏活動