ヘンリ・トイヴォネン
基本情報
国籍 フィンランド
生年月日 (1956-08-25) 1956年8月25日
死没日 (1986-05-02) 1986年5月2日(29歳没)
WRCでの経歴
活動時期1975-1986
所属チームタルボ, オペル, ポルシェ, ランチア
出走回数40
チャンピオン回数0
優勝回数3
表彰台回数9
ステージ勝利数185
通算獲得ポイント194
初戦1975年1000湖ラリー
初勝利1980年ロンバードRACラリー
最終勝利1986年ラリー・モンテカルロ
最終戦1986年ツール・ド・コルス
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ヘンリ・パウリ・トイヴォネン(Henri Pauli Toivonen、1956年8月25日 - 1986年5月2日[1])は、フィンランド・ユヴァスキュラ出身のラリードライバー。世界ラリー選手権(WRC)で通算3勝を挙げ、長年最年少優勝の記録を保持した。 ヘンリ・トイヴォネンは、ラリー・フィンランドを1951年以来開催してきた都市ユヴァスキュラに生まれた。 父のパウリ・トイヴォネン
概略
トイヴォネンは1980年のRACラリーでWRC初勝利を挙げた。この時の年齢(24歳86日)は当時の最年少優勝記録であり、この記録は2008年のラリー・スウェーデンで同郷のヤリ=マティ・ラトバラが初勝利を挙げるまで28年にわたり更新されなかった。タルボやオペル、ポルシェ等のワークス・チームに所属した後、トイヴォネンはランチアの契約ドライバーとなった。トイヴォネンは1985年シーズンの最終戦RACラリーで2勝目を挙げ、翌1986年シーズンの開幕戦ラリー・モンテカルロでも優勝した。モンテカルロでの勝利は、父の優勝からちょうど20年後に達成されたものだった。
1986年5月2日、コルシカ島でのツール・ド・コルスをリードしていたトイヴォネンは、ランチア・デルタS4で走行中に崖下に転落する事故を起こし、コ・ドライバーのセルジオ・クレストと共に死亡した[3]。爆発炎上した事故車両はスペースフレームを残して焼失し[4]、事故現場に目撃者もいなかったため、事故の原因を特定するのは不可能だった。この死亡事故の直後、当時のFISA会長ジャン=マリー・バレストルは、1987年以降のWRCにグループBのラリーカーが参加することを禁止した[5]。
1988年から毎年開催されている「レース・オブ・チャンピオンズ(ROC)」は、ミシェル・ムートンがトイヴォネンの追悼を目的として企画したイベントであり、個人戦の優勝者には「ヘンリ・トイヴォネン・メモリアルトロフィー」が授与されている。 トイヴォネンは5歳の時に車の運転を学び[6]、その後レーシングカートを始めた。1977年にはフォーミュラ・Veeのフィンランド・チャンピオンとなったが、サーキットレースの安全性に対して家族が懸念を示したことから、ラリー競技に転向することとなった[7]。トイヴォネンが使用したレーシングカートは、のちにF1のチャンピオンとなるミカ・ハッキネン(当時6歳)の両親に買い取られた[8]。 トイヴォネンの世界ラリー選手権(WRC)初参戦は、1975年シーズンの1000湖ラリー(現在のラリー・フィンランド)である。プライベーターとしてシムカ・ラリー2で出場したが、オイルパンの故障によりSS36でリタイアした[9]。サーキットレースでの活動と並行して、トイヴォネンは1977年の1000湖ラリーで2度目のWRC参戦を果たし、クライスラー・アヴェンジャーを駆り5位に入った[10]。 1978年シーズンの初戦は、WRCのFIAカップ(1979年以降のドライバーズ選手権)の第2戦であるアークティック・ラリー
初期の経歴
翌1979年シーズンにはWRCの2戦に参加したが、いずれもリタイアに終わった。しかし、フィアット・131アバルトで参戦した1979年の1000湖ラリーでは、コースアウトを喫するまでトップの車と同等のペースで走行していた[13]。これらのパフォーマンスが評価され、トイヴォネンは翌1980年シーズンにタルボのワークス・チームの契約ドライバーとして参戦することとなった。
ワークス・チームでの経歴
タルボ時代 (1980?81)1980年のRACラリーでトイヴォネンがWRC初優勝を果たしたタルボのサンビーム・ロータス
1980年シーズン、タルボに加入したトイヴォネンはタルボ・サンビーム・ロータスを駆り、1月のアークティック・ラリーで優勝したが[13]、WRCイベントには年間4戦のみの参戦に留まった。