ヘンリイ・パイク・ブイ
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ヘンリイ・パイク・ブイ(Henry Pike Bowie, 1848年4月1日 - 1920年12月23日)は、米国日本美術愛好家、サンフランシスコ日米協会初代会長。日本美術に通じ、『日本画の描法』などの著書がある。排日運動が激しかったアメリカで日米親善や日系移民の権利擁護に貢献した。

詩人平野威馬雄の父、料理愛好家平野レミの祖父。雅号は武威(ぶい)。名前はHenry P. Bowieと綴られることもある。
経歴
来日前

息子の威馬雄は子供の頃に父ヘンリーから聞いた話として、「カリフォルニア州生まれで、祖先はスコットランド貴族の家系であり、一族にはナポレオンの最初の皇后ジョゼフィーヌがいた」としているが真偽は不明。記録として確認されている経歴は、1705年にスコットランドからアメリカのメリーランド植民地に入植し地主となったジョン・ブイ・シニア(アメリカのブイ家の始祖)の6代目の子孫で外科医のオーグスタス・ジェス・ブイと、バルチモア出身のヘレン・マーサ・パイクとの息子(9人兄弟の3男で、愛称ハリー)としてアナポリス (メリーランド州)で生まれ、父が軍医として働いていたサンフランシスコに1852年に転居した[1][2][3][4]。当時サンフランシスコはカリフォルニア・ゴールドラッシュの時期だった。

カリフォルニア大学卒業後[5]@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}実業界に入り、若くして億万長者となる[要出典]。アメリカの資料では、サンフランシスコの新進弁護士Matthew Hall McAllisterのもとで働き始めたとされる[4]

1879年に15歳年上の在米イギリス系チリ人の未亡人アグネス・ポエト・ホワードと結婚[6]。アグネスはチリの良家出身でアメリカ人と2度結婚したが2度とも夫に先立たれて莫大な遺産を相続した裕福な女性で、ヘンリーとは3度目の結婚だった[7]。ヘンリーは結婚後、法律業界を辞め、妻アグネスの所有するサンマテオ (カリフォルニア州)のヒルズボロにある大豪邸「El Cerrito」で暮らし始めた[4]。アグネスの二人の元夫はホワード家の兄と弟で、兄は客船のボーイからゴールドラッシュで沸くサンフランシスコの港湾業で成功し、サンマテオの半分を公有地供与されて大地主となった地元の名士だった[8]。兄の死後弟が事業を引き継いでいくつもの会社を経営し、ホワード家はカルフォルニア開拓者協会(1850年以前にカリフォルニアに入植した先駆者たちの集まり)にも所属する名門として知られていた[9]。アグネスとヘンリーが結婚した当時、すでにアグネスの長男ウィリアムは結婚してパリに住んでおり子供が生まれたばかりだったこともあり[6]、アグネスはその他の子供(ウィリアムの弟たち)を連れてヘンリーとヨーロッパへ新婚旅行に行き、2年間滞在した[6]

威馬雄がヘンリーから聞いた話によると、「パリ音楽院作曲ヴァイオリンを修め、マッサールの弟子としてパガニーニ変奏曲などを学び、サン=サーンスパデレフスキマスネドーデなどと交遊すると共に、早くからゴンクール兄弟浮世絵を共同研究し、俳句連歌、茶事、書画に熱中した」という。この時期のヨーロッパはジャポニスムの全盛期だった。
来日後

1893年に妻のアグネスが60歳で亡くなるが、ヘンリーがカトリックだったため、前夫らの墓に埋葬できずヘンリーと子供たちで別の教会に豪華な霊廟を建てて弔った[6]。ヘンリーはアグネスからの遺産として、邸宅のあるヒルズボロの土地やサンマテオ郊外のコヨーテ・ポイントの地所など[4]、アグネスが元夫から相続した広大な地所の5分の1を得た[10]。同年初来日し[11][10]、日本の美術品を収集。以後、来日すること数回、常に和服を着用した。巖谷一六から武威という雅号を受ける。京都に住んだ時には主に西川桃嶺(幸野楳嶺門人)や久保田米僊に、東京では島田雪湖・墨仙日本画家たちに師事し、ブイが描いた日本画も残っている。また、歌人の福羽美静とも交流した[12]。51歳だった1899年に、明治天皇に仕えていたとされる24歳年下の平野駒と東京で結婚し[13](仲人は柳原愛子)、1900年に長男の平野威馬雄が生まれた。1907年に再来日して2年間滞在し、1908年には次男の平野武雄をもうけた[14](威馬雄がヘンリーと会ったのはこの7歳のときの2年間と、ヘンリーが亡くなる直前の18歳のときのみとなった)。

母国アメリカでは、西海岸での日系移民への排斥運動が高まりを見せており、威馬雄によると「迫害された日系移民たちをカリフォルニア州サンマテオの自邸に招き、励ましと共に職を与えた」という。日本通として大学などで日本美術についての講演会を開き[15]、1905年にはサンフランシスコ日米協会(The Japan Society of San Francisco; The Japan Society of Northern Californiaの前身)を創立、初代会長に就任。副会長にはスタンフォード大学学長だったデイビッド・スター・ジョーダンを迎えた。威馬雄によると、「ポーツマス講和会議ではルーズヴェルト大統領に随行し、帝政ロシアによる東洋侵略政策を批判した」とされる。1912年頃に英語フランス語で『日本大和言葉の研究』『日本画の描法』(雪湖が一部挿絵を担当)を米仏の出版社から刊行した。この時期は、1906年にサンフランシスコ市が日本人学童隔離政策を実施、1908年には日本人の入国制限、1913年には日系人閉め出しを目的としたカリフォルニア州外国人土地法が施行されるなど、排日運動の激しさが増していたさなかであり(排日移民法#日本人移民への排斥活動とその対応参照)、とくにヘンリーが暮らすサンフランシスコ一帯は「排日の本場」と言われるほどの激しさにあった[16]


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